行列ができるラーメン屋

 

DVC00008.JPG沖縄で、こんなお店は珍しい。
それは、沖縄の人はどんなに美味しくても、
まず”並んでまでは食べない”からです。

それに、沖縄には「沖縄そば」という県民食があって、沖縄ではラーメンはあまり流行らないから、です。

そうです。ここで並んでいるのは沖縄県民ではありません。
ほとんどが、台湾、中国からの観光客。

このお店は「九州ラーメン総選挙で第一位になった」ということで
麺好きな一部の沖縄の人と、多くは、ラーメン通の県外出身者にとっての
知る人ぞ知る名店だったと思われます。

それが、ここ数か月ほど前から、急に店の前に行列が目立つようになりました。
きっとネットや口コミで拡がったのでしょうね。

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ラーメンの元祖の国・中国系の人たちが行列するのですからきっとおいしいと思われますが、味については、私も食べたことはありませんからコメントできません。悪しからずご了解を。
気になる方は、ご自分でご確認下さい。

沖映通りの、睦橋からジュンク堂書店に至るちょうど中間あたり、
パラダイス通りから沖映通りに抜ける突き当りにあります。

2015年10月26日リンクURL

今日(10月23日)の辺野古~大雨のゲート前

ゲート前行動474日目の辺野古。DVC00015.JPG

今日も早朝6:00から工事車両専用ゲートと
基地に出勤する米軍人が出入りする新ゲートの二カ所に分かれて
アピール行動を行った。
台風24号崩れの熱帯低気圧の影響で激しい風雨にもかかわらず
100名近くの人たちが参加した。

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翁長知事の「埋め立て承認」取り消しで
海上工事はストップしているため工事車両の出入りはなく
主に、出勤してくる米兵に「NO BASE」を訴える。

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休息のあと、9:30から午前の集会が始まるころ雨はさらに激しくなり
テントの下でも傘を差さなければ濡れてしまうほど。

それでも県内各地、全国からの人たちが続々と集まってくる。

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福岡からやってきた中学生。1週間テントに寝泊まりして、辺野古総合大学で沖縄を学んだ。
「沖縄の人たちがどんな思いで闘っているかよくわかった。この経験を多くの友人たちに伝えたい」と、今日福岡に帰って行った。

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毎週月曜日、普天間基地のゲート前で讃美歌を唄いながら
オスプレイ反対の声を上げる「ゴスペル歌い隊」のメンバー。
毎月1回、辺野古のゲート前でも、みんなと一緒に清々しくゴスペルを歌う。

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山城博治さんも、京都の歌姫と元気に「ケセラセラ」を披露した。

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金城実(彫刻家)大先輩も胸のすくようないつものアジテーションだけでなく
ハーモニカで「ふるさと」を熱演。

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三重県からきたこの方は、来年の参議院選挙で
「自民党が三分の二を獲得したら憲法が変えられてしまう。野党がこれまでのように
ばらばらで勢力争いだけで候補者を立てても、せっかく目覚めた若者たちにそっぽを向かれるのは目に見えている。沖縄が、知事選挙をはじめ数々の選挙を、オール沖縄で成功させたことに学んで、オールジャパンを全国に広げる運動を立ち上げたい」と訴えた。

はためくムシロ旗

はためくムシロ旗

所要のため、今日は午前中で辺野古を後にした。
午後もきっとたくさんの人たちの参加で、ゲート前は雨を吹き飛ばす熱気にあふれることでしょう。

2015年10月25日リンクURL

20年前の10・21~私たちはあの日を忘れない

10月21日は国際反戦デー。沖縄でも「安保法廃止、辺野古新基地建設阻止」の集会開かれた。

10・21反戦デー集会

<昨日の10・21反戦デー集会:県民ひろば>

それにつけても思い出すのは、1985年10月21日。

8万5千人の県民が宜野湾市の海浜公園を埋め尽くした。
3人の米兵が、小学生の女の子に性的暴力を働いたことに抗議するために。

あいさつにたった大田昌秀県知事(当時)は、
冒頭に「幼い少女の尊厳を守れなかったことを、行政の長としてお詫びする」と
県民の前に深々と頭を垂れた。

1985年 8万5千人が結集した県民総決起大会

1985年 8万5千人が結集した県民総決起大会

 

事件が起こったのは9月4日。少女が被害を警察に訴えたことで、事件は表面化したが
いたいけな少女の被害に地元のマスコミもどう扱っていいかわからず
新聞の3面にわずか数行の記事が載っただけだった。

起ち上がったのは、北京会議(第四回世界女性会議)から帰ってきた71人の沖縄の女性たちだった。
「女性への暴力は人権侵害であり、凶悪犯罪である」
北京会議の大きなテーマでもあった「女性への暴力」、その最たるものが軍隊による女性への暴力である。

戦後50年間(当時)米軍基地が集中し、外国の軍隊が長期駐留する沖縄で、
どれだけ多くの女性たちが軍隊の暴力にさらされ、
殺され、心身を傷つけられてきたことか。
その多くが、声も上げられず沈黙を強いられ続けている。

そんな中で警察に訴えた少女の勇気に応えるためにもと
北京から帰ってきた女性たちはたち上がった。

女性たちの小さな抗議集会が、各地でいくつも行われ、
ついに8万5千人の県民大会へと広がった。

人殺しが仕事である「軍隊は構造的暴力」である。
基地がある限り女性への暴力は起こり続けると、県民大会が終わっても、
女性たちは声を上げ続けた。
そして、「基地問題は人権問題」が、沖縄の共通認識になった。

基地への反発がこれ以上大きくなることに恐れをなした日米両政府が取った措置が
「普天間基地の返還」だった。
しかし、「返還」はすぐに「移設」にすり替わり、20年たっても解決できないまま
「辺野古」へとつながっている。

あれから20年、県民が求めた「基地の整理縮小と負担軽減 不平等な日米地位協定の改定」は実現することなく、軍隊の女性に対する暴力は、今も起こり続けている。

2015年10月22日リンクURL