戦後70年の慰霊の日 ②~国際反戦沖縄集会

沖縄戦では20万人余が犠牲になった。当時の沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになる。

沖縄戦最後の激戦地となった糸満市の摩文仁には、平和の礎をはじめ各県の慰霊碑が建ち並ぶが、「沖縄県の碑」と名のつく慰霊塔だけはどこにもない。
ここ「魂魄の塔」が、その役割を果たしている。

魂魄の塔

魂魄の塔

戦後、累々と野ざらしになっていた戦没者の遺骨を拾い集めて祀ったのが、この「魂魄の塔」である。戦争で亡くなった家族の遺骨が見つからなかったり、どこで死んだのかわからない遺族は、ここへお参りに来る。DVC00060.JPG

今年も早朝から夕方日が落ちるまで、線香の煙が絶えることがなかった。
今年は特に子どもたちを伴った家族連れが目立ったのは、私の気のせいばかりではないようだ。

DVC00050.JPG

市民グループは、毎年、県主催の追悼式とは別に「魂魄の塔」の前で国際反戦沖縄集会を開く。

DVC00037.JPG

辺野古から、高江から、泡瀬干潟から、フクシマから、韓国から、アメリカから、志を同じくする市民のネットワークを繋げ広げる集会となる。

150623_125844

琉球讃歌と空手踊り

三線とうちなぁぐちで

 

 

 

 

例年、歌あり、踊りあり、メッセージありとにぎやかだが、特に今年は戦後70年の節目の年とあって、反戦・平和への誓いも新たに、盛り上がりのある集会となった。

フクシマから

フクシマから

2015年6月24日リンクURL

戦後70年の慰霊の日①~知事 平和宣言

県主催全戦没者追悼式(琉球新報より)

県主催全戦没者追悼式で黙祷を捧げる参加者(琉球新報より)

 

6月23日、沖縄戦の終戦の日。安倍総理大臣、衆参議長、ケネディ・アメリカ大使も出席して、沖縄県主催の全戦没者追悼式(5400人が参加)が行われた。

地元紙が伝えるところによると、翁長知事はじめ遺族会代表など沖縄側の発言者がすべて、辺野古新基地建設反対を盛り込んだ挨拶を述べ参列者の間から拍手が起こる一方で、沖縄戦の悲惨さを言葉だけで言いつくろう安倍総理に、参列者から「戦争屋!帰れ!」の声が飛び交ったという。

例年、厳かに行われる慰霊祭で、拍手や怒りの声があがることは違例で、積もり積もった県民の怒りが強く現れた追悼式となった。

24日 琉球新報

24日 琉球新報

 

 

<知事平和宣言 全文>

70年目の6月23日を迎えました。

私たちの郷土沖縄では、かつて、史上まれに見る熾(し)烈(れつ)な地上戦が行われました。20万人余りの尊い命が犠牲となり、家族や友人など愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。

それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。

戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。

しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発にさまざまな影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合がわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。

沖縄の米軍基地問題は、わが国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。

特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。

そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。

国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎(いしずえ)を築くことはできないのです。

政府においては、固定観念に縛られず、普天間飛行場を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。

一方、私たちを取り巻く世界情勢は、地域紛争やテロ、差別や貧困がもととなり、多くの人が命を落としたり、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなど悲劇が今なお繰り返されています。

このような現実にしっかりと向き合い、平和を脅かすさまざまな問題を解決するには、一人一人が積極的に平和を求める強い意志を持つことが重要であります。

戦後70年を迎え、アジアの国々をつなぐ架け橋として活躍した先人たちの「万国津梁」の精神を胸に刻み、これからも私たちは、アジア・太平洋地域の発展と、平和の実現に向けて努力してまいります。

未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを創りあげ、時を超えて、いつまでも子どもたちの笑顔が絶えない豊かな沖縄を目指します。

慰霊の日に当たり、戦没者のみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、沖縄が恒久平和の発信地として輝かしい未来の構築に向けて、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。

2015年6月23日

沖縄県知事 翁長雄志

2015年6月24日リンクURL

ベトナムの旅 ⑮最終回 想い~“悪魔の島と呼ばれたOKINAWA”から

私が、ベトナム青葉奨学会やアレン・ネルソンさんの活動などベトナムについて関心を持つようになったのは、あることばに出会ったことが根っこにあります。
それは「沖縄のことをベトナムでは“悪魔の島”と呼ばれている」と知ったことです。

ベトナム戦争の最中、報道現場で仕事をしながら、組合活動もしていた20代。基地の島沖縄から飛び立って行く米軍のB52爆撃機が、ベトナムに向かっていることは知っていました。

黒い殺人機と呼ばれたB52爆撃機

黒い殺人機と呼ばれたB52爆撃機

 

しかし、基地からもたらされるさまざまな被害、事件事故、同じ人間とは思えない人権侵害の数々、米軍の圧政に蹂躙される(それはベトナム戦争の余波でもあった)沖縄の私たちには、自分たちのことで精いっぱいで、B52がベトナムでどんなひどいことをしていたのかという具体的なことまでは思いが至りませんでした。

ベトナム戦争も終わりに近いころだったと思います、そのことばを知らされたのは。ベトナムの人たちにとって、街も森も人間も無差別に焼き尽くすB52爆撃機が飛んでくるOKINAWAは“悪魔の島”以外の何ものでもなかったのです。米軍の被害者とばかり思っていた沖縄は、ベトナムの人たちにとっては加害者だったことを思い知らされたのでした。以来、ベトナムに無関心ではいられなくなりました。

明るいベトナムの子供たち

明るいベトナムの子供たち

実は、私にはベトナムに息子がいます。いま小学校4年生です。ベトナム青葉奨学会を通して奨学金を送っている里子です。父親は行方不明、母親は病死して祖母に育てられています。ベトナム青葉奨学会沖縄委員会が出来て今年で23年目、彼は私にとって5人目の子どもになります。

奨学金は、年間日本円で小学生が7.000円、中学生10.000円、高校生12.000円を、さまざまな事情で、学びたくても学校へ行けないベトナム子どもたちを支援します。日本で普通に仕事を持っていれば、そんなに大変な額ではありません。驚くのはこの金額で、一人の生徒が一年間学校に通うためのすべての経費が賄えるということです。小学生の里親になると、その子が高校を卒業するまでずっと継続して責任を持つというシステムになっています。

そんなわけがあって、ベトナムは20年間、ずっと一度は行きたい国でした。それがやっと実現したわけですが、今回は別の目的があったので、里子に会うことはかないませんでした。でも、遠かったベトナムが身近に感じられるようになって、近いうちにすぐまた行けるような予感がしています。そのときはきっと我が息子に会えることでしょう。

こんな小さい島にこれだけの基地が…

こんな小さい島にこれだけの基地が…

ベトナムの旅の報告を締めくくるにあたって、改めて思うのは「辺野古の新基地建設」のことです。
耐用年数100年とも200年ともいわれる辺野古の基地の建設を、もし許してしまうと、
これから先、アメリカが世界中で引き起こす戦争に、米軍だけでなく自衛隊までが一緒になって、「新しい辺野古基地」から戦闘機が、オスプレイが、戦艦が、世界中の戦場に出かけていくことになるのです。

市民の抵抗~ヘリは私たちの上を飛ぶな!

市民の抵抗~私たちの上を飛ぶな!

これまでの70年でも耐えがたいのに、さらに100年、200年も「悪魔の島」と呼ばれ続けるのでしょうか、沖縄は!
それは絶対にイヤ!です。私たちは加害者にも被害者にもなりたくありません。沖縄の人々が望んでいるのは、代々先祖から受け継いだ海と山の豊かな自然の恵みをいただいて、静かに平和に暮らしたい、ただそれだけなのです。

7月1日、ゲート前の座り込みはまる一年を迎えます。その前に普天間のゲート前では、オスプレイの配備に反対してもうすぐ3年、ヘリパット建設に抗議する東村高江では8年、辺野古浜のテントでは、地元のお年寄りが抗議の座り込みを始めてから18年が過ぎました。
こんな理不尽は、もう終わりにしましょう。

2015年6月22日リンクURL