本書は、信濃毎日新聞で2019年8月から16回にわたって連載された「夢に飛ぶーもろさわようこ、94歳の青春」を一冊にまとめたものである。
女性史研究家もろさわようこさんは、ジェンダーということばがまだ一般的でなかった時代に、女性の視点で歴史を編み直した先駆者である。「女」が、性的な蔑みを含む差別用語であった当時、「信濃のおんな」「おんなの戦後史」「おんな・部落・沖縄」「沖縄おんな紀行」など、あえて「おんな」と表したのもその一つ。今風に言えば、「私、おんなですが、それが何か?」という感じだろうか。
20歳で迎えた敗戦、それまで「鬼畜米英」を叫んで戦意高揚に加担した知識人や言論人たちが、手のひらを返したように「民主国家米英」と称える姿を見て、軍国少女だった価値観が覆され、精神崩壊を来すほどの人間不信に陥った。以後、他から与えられた言葉ではなく、「自分が見て、手触り、考える」ことを信条としてきた。「“女性史研究家”は人様がつけてくれた世渡りの通行手形、なぜ自分は生きなければならないのかと、人間として生きる意味を探っている中で言葉が出てきた。何者でもなく、ただの求道者でしかない」と語る。
発した言葉は、「行動を伴わなければ嘘になる」として、おんな(長野)、部落(高知)、沖縄に、志縁(地縁、血縁ではなく、志への共感)で繋がる人々の交流の場を設け、常により痛み深く生きる人々のくらしやたたかいの現場に身を置き、共に実践を重ねてきた。
物事は、被害や実態を告発するだけではなく、なぜそうなったのかを突き止めねば、社会も自らをも変革することはできない。「なぜ貧困や戦争が起こるのか」「なぜ女は差別されるのか」、そもそも「なぜ差別が存在するのか」、根源を問うところから解放像は見えてくる、と。そして、「女が抑圧されるとき、また男も抑圧されている」、知らず知らずに意に反して体制補完の役割を担わされる落とし穴にはまってはならないと、警告も発している。ものの見方考え方の基本を鍛えてくれる一冊である。
沖縄に関する論考も多く取り上げられ、沖縄人としても興味深い。もろさわさんは、沖縄復帰の年1972年にはじめて沖縄の土を踏んだ。宮古島の女性祭祀「祖神祭(うやがん)」に「原始、女性は太陽であった」女性史の源流をみて魅せられ、以来50年沖縄に通い続けた。「恋焦がれた」沖縄だが
<島尻のウヤガン (上井幸子写真集から ↑> 決して盲目に陥らず、時代の変遷の中で、祖神祭をはじめ久高島のイザイホー、ノロなどの女性祭祀が、いつしかときの権力組織に組み込まれ、体制維持に利用されていく側面もしっかり見据えている。
本書は、女性史研究家にとどまらず、詩人であり、思想家、求道者でもあるもろさわようこの全体像を描き出している。それは著者が、単に取材対象としてではなく、自らの痛みの解放像を求めて、もろさわようこに体当たりで喰らいつき、自己変革する中から生まれたからだ。ここで詳しく述べることはできないが、もろさわさんも、身も心もさらけ出して応えている。
<2010年ウヤガンの痕跡を訪ねて大神島へ。島の神人と→>
「自己変革を重ね、常に新しい自分でありたい」というもろさわさん、どんな状況下でもいつも前向き。辺野古のゲート前で座り込みながら、ときに言いようもない絶望感、徒労感に襲われるが、そんなとき、97歳にして「私にはまだやりたいことがある。私の人生これからが本番よ!」と熱く語るもろさわさんの声が聞こえてきて、人生の残歴版が見えてきた私も、背筋を正されている。
<←2021年の衆議院選挙投票沖縄与那原町にて>
昨年は、本書の他に相次いで二冊の新編を上梓した。