ジュウルクニチー(十六日祭)の渡嘉敷島

 25日(日)はジュウルクニチー(十六日祭)で渡嘉敷島へ帰りました。
 十六日祭はあの世のお正月。旧暦の1月16日に行われます。渡嘉敷島には清明祭はなく、お葬式など法事以外にお墓参りができるのは、この十六日祭だけになります。

 親族が集まり、お墓の前でごちそうを拡げ、ご先祖様と一緒にお正月を祝います。

 我が家では、まず一族の始祖が埋葬されているのではないかと言い伝えられている集落北側の山沿いにある「うる墓」と呼ばれる風葬地を拝みます。そこには直径一メートルほどのテーブル珊瑚があるだけで、お墓らしいものは何もありません。 

 お花やごちそうを備え、お線香をたいてお祈りをしていると、面白いことが起こりました。

 お供えの水とお酒にノソリノソリとやってきたのは、一匹のアーマン(オカヤドカリ・国の天然記念物)。私の握りこぶしくらいはあり、結構な大きさです。

 なにかご先祖様からの伝言でも持ってきてくれたのでしょうか?彼(か彼女かはわかりません)が、立ち去るまで、じっと見守るしかありませんでした。

 つづいて、分家である我が家の初代・祖祖父母以下祖父母、両親の眠るお墓にお参り、さらにいくつか親戚のお墓にお花を供えてお参りするのが通例です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無事すべてのお参りを済ませ、帰路に立ち寄った親戚の庭で、白いデイゴの花が開き始めていました。 
 いつもタイミングが合わず、白いデイゴの花を見たのは、これがはじめてです。是非満開のときに見たいものです。

 

2024年2月27日リンクURL

平和学習ツアーのガイドで渡嘉敷島へ

 16日(火)は、韓国からの平和ツアーのガイドで、渡嘉敷島に行ってきた。


 去る五月にソウル市内の教会幹部の方々を案内したときのメンバーが、今度は自分の所属する教会の若い人たちを、送り出してくださったのだそうだ。

 「地上戦」、「集団自決」、「慰安婦」、史上最悪の戦場と言われる沖縄戦の、三大特徴であるこれらすべてが、さらに濃縮した形で起ったのが渡嘉敷島の沖縄戦である。ここに大きく朝鮮半島の人々が関わってくる。

 渡嘉敷島の慰安所に、日本軍の性奴隷として繋がれ、過酷な生き地獄を強いられた7人の女性たちは、朝鮮半島から騙されて連れてこられた女性たちだった

 沖縄戦当時、この小さな沖縄の島々に147ヵ所もの慰安所があったことが、わかっているが、その中でどんなことが行われていたかは、軍の機密とも相まって全く明らかになってない。唯一渡嘉敷島の慰安所だけ、慰安所の実態が明らかになった。それは、戦後も沖縄で生きた一人の女性の証言があったからだ。

 二度と同じことを繰り返さないためにも、彼女たちのことを記憶にとどめようと、この地に「アリランのモニュメント」が建立された。

 また、一枚目の写真は、特殊特攻艇(ゼロ戦の船版)の秘匿豪の前で写したものだが、この壕もまた朝鮮半島から強制連行された「軍夫」と呼ばれた人達が掘ったと言われている。

 「特殊特攻艇」は、日本軍にとって秘密作戦だったため、住民が米軍の捕虜になって軍機密が漏れることを恐れ、住民は集団自決に追い込まれた。 

 渡嘉志久ビーチの白い砂浜で昼食をとる若者たち。しっかり事前学習もしての沖縄平和ツアーだが、「知識としては知っていたが、やはり実際に現地に来なければわからないことがある。ひしひしと体に感じるものがありました」と感想を語ってくれた。 

 集団自決のあった北山(ニシヤマ)では、村花・ケラマツツジが開花、青い空に映えていた。

 

2024年1月17日リンクURL

私はシーサーになりたい!

  私の名前はパンダ。実はノラである。生まれたときからこの家でエサを貰って大きくなった。いまも両親、兄弟姉妹共にこの家のお世話になっている。一日24時間気ままに暮らし、朝晩のエサの時間と、甘えたいときだけこの家にやってくる。

 だけど一宿一飯の恩義は忘れない。だからこの家を守るシーサーになりたいと願って、ときどきこうして魔除けのシーサーさんの横でシーサー見習いをさせてもらっている。

 この家だけでなく、ウクライナやパレスチナ、南西諸島襲っている戦争の邪気や、自然災害の邪気も追い払いたい。

(シーサーのときは踏ん張って怖い顔してるけど、ほんとは甘えん坊の優しい女の子です)

 

 

 

2024年1月4日リンクURL