「平和の旅」の案内で渡嘉敷島へ

 19日(土)は、香川県からの「沖縄・平和の旅」の皆さん10名を、渡嘉敷島に案内した。

前日まで大雨の予報で、船の欠航などあり心配したが、当日は決して好天とはいえなかったものの薄日もさし滞りなく案内することができて安堵。    白玉の塔の参道にまだケラマツツジも咲いていた>

<「西展望台」からケラマ海峡を望む>

 一行は憲法9条の会はじめ、それぞれに平和や人権の問題に取り組む方々とあって、熱心に説明を聞き、質問も鋭く、久々にガイドし甲斐のある旅だった。

    <渡嘉敷の海も楽しんでいただいた(トカシクビーチ>

往きの高速艇が満席になるほど観光客であふれる渡嘉敷島。海外からのダイビング客も多い。オーバーツーリズムも気になる。

 

2025年4月22日リンクURL

戦争の愚かしさを教えてくれる ケラマブルーに輝く渡嘉敷島

 20日(木)は、関西で「慰安婦」問題に取り組む友人らを案内して渡嘉敷島へ行ってきた。

 雲が多く決して完ぺきとはいえなかったが、ここ数年渡嘉敷へ行くたび悪天候に見舞われ、紺碧の海を見ることが出来なかったので、久々にある程度うなずける慶良間ブルーに出合えた。

 野山はシャリンバイ、テリハボク、ケラマツツジ、野アザミの花々が咲き乱れ、ムラサキシキブ、ヤマモモが鈴なり、今まさに春爛漫。ここが戦争の爪痕深き島であることを、しばし忘れさせてくれた。

 が、我にかえって見れば、自然の美しさと戦の悲惨のコントラストが、逆に戦争の残忍さ、愚かしさを浮き彫りにする。

 「慰安婦」問題に取り組む友人たちが、この島にやって来たのは、「慰安所」跡や、アリランのモニュメントがあるからだ。

 沖縄戦当時、沖縄には145ヵ所もの「慰安所」があったとされるが、その中の様子がわかっているのは、唯一渡嘉敷島の「慰安所」だけである。

 しかし、そこだけを見ても、問題の本質は見えてこない。なぜ戦争が起こるのか?なぜ「慰安婦」という存在を生み出したのか?ことの本質を問わねば、戦争も止められないし「慰安婦」問題の解明にもつながらない。案内をしながら、どう説明すれば伝わるのかと、いつも苦悩する。

 

2025年3月22日リンクURL

16日祭の渡嘉敷島➁ 

 今朝(16日)の琉球新報、渡嘉敷島の16日祭の記事が、通信員のレポートとして掲載されている。偶然にも記事の写真が我が家のお墓であった。家族一同ビックリ。

 

 記事にもあるように、渡嘉敷村のお墓はこれまで「模合墓」が一般的。沖縄では門中墓がよく知られているが、門中墓が男系の親族(一門)を祀るのに対し、模合墓は、そのときどきにお墓の必要な家族が何軒か集まり、一つの墓を共用するすくみになっている。(呼びかけ発起人を墓主とする)

 我が家の墓も祖祖父の時代(明治の終わりごろと思われる)に、分家した祖祖父がこの模合墓に加わってる。

 門中墓は、墓前で門中が勢ぞろいして清明祭を盛大に行うが、渡嘉敷島には中国由来の清明祭はない。そして、お墓参りも一年のうち16日祭だけである。それ以外の先祖供養は、全て仏壇を通して行う。

 残念ながら、こうした日常の祭祀にあまり関心をむけてこなかったので、両親や祖母に話を聞く機会を逸してしまい、詳しいことはわからない。代々命を繋いできたご先祖がいたからこそ、今の自分がいることを思えば、先祖供養を大事にしてきた沖縄の先人たちの「想い」は受け継いでいかねばと、自らが終活の年齢になり、遅まきながら気づき反省しているこの頃である。

 

 

2025年2月16日リンクURL