沖縄戦 米軍上陸の日に ~ 4月辺野古県民大行動

 今日(4月1日)は、 毎月第一土曜日に行われる県民大行動の日。辺野古ゲート前に650人が結集した。

 集会前の一コマ。群馬県から来たという中学生が3人、島袋文子さんの戦争体験を真剣な眼差して聞いていた。

 中でも目を潤ませながらも、しっかり質問していた姿が印象的だった。感想を尋ねたら「戦争のことがよくわかった。文子さんに会えてよかった」と話してくれた。


  
山城博治さんの司会で進められた集会は、オール沖縄会議共同代表・高里鈴代さんの主催者のあいさつで開会。

 高里代表は、「今日4月1日は、78年前の沖縄戦で米軍が、沖縄本島に上陸した日である。以来米軍は沖縄に駐留し続けるだけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、アフガン戦争と世界各地の戦争に、この沖縄から出撃して行った。78年たった現在、米軍と一体になった自衛隊によるミサイル基地が次々つくられ、今また78年前の戦争状態に戻ろうとしている。

 戦争で亡くなった人たちの無念の思いを引き継ぎ、戦争につながる新たな基地はつくらせないと、私たちは抵抗を続けている。決意を新たに、さらにがんばって行こう!」と呼びかけた。

 続いて、3月16日に行われた辺野古住民訴訟の報告。

 原告のひとりEさんは「その日、私は原告を代表して意見陳述をすることになっていたが、裁判長から事前に陳述書の原稿提出を求められ、その中で『辺野古新基地建設は自然を破壊し、生物多様性を損壊する国家犯罪』とする内容に問題があると修正を指示された。

 抗議したが『修正しなければ意見陳述は認めない』とのことで、やむなく修正し、意見陳述を行った。しかし、これは裁判所による検閲であり、表現の自由の侵害、前代未聞のことである。裁判所による言論弾圧を許してはならない」と声を震わせた。

 国家権力にすり寄る裁判所のあり様に、怒りがこみ上げる。 

 さらに集会は、知事メッセージ、PFAS汚染からいのちをまもる連絡会からの報告、国会議員代表、県議会議員代表のあいさつ、市町村島ぐるみ会議からの意見表明などが行われた後、 

 国会請願署名アピールのため、糸満市の平和礎から辺野古まで、5日間ののピースウォーク行った若者たちが紹介された。

 メンバーを代表して県議会議員の上原カイザ氏は「靴が破れ、足の豆がつぶれ、痛みに耐えながらの行程だったが、多くの人たちが背中を押してくれて、敢行出来た。なにより若者たちにとっては、各地域の人たちとの交流で、戦争の追体験になった。沖縄の島々を戦場にさせないと、平和への思いを込めて歩き通した」と笑顔で報告した。

 最後に、稲嶺進オール沖縄会議共同代表の「頑張ろう!」で集会を締めくくった。

 

2023年4月1日リンクURL

目立つ防衛局の威圧的対応 ~ 3月29日の辺野古

 29日はいつもの7時のバスではなく、那覇9時発のバスで辺野古に向かった。このところ少々忙しかったので無理がたたって体調を崩し、今週は休もうかとも思ったが、やはり身体は休めても、なんとなく心が落ち着かず、結局9時のバスに飛び乗ってしまった。

 いつもとは違うバスのメンバーと、すでに陽が高く昇り、バスの窓から見える外の景色も違って見える。たまには気分が変っていいかもしれない。

 辺野古に到着したのは10時過ぎ、一回目の座り込みは終わっていた。3188日目の辺野古である。

 コロナ禍が収まり、県外・海外からの修学旅行、平和学習ツアーも増え、辺野古へ若い人たちの姿が多くみられるようになってきた。この日は11時の第4ゲートからの搬入もなく、二回目12:00前の座り込みまでゆっくりと参加者の同志の交流が行われた。

 11時過ぎにやってきた20数名の若者は大阪からの国際高校の生徒たち。毎年沖縄だけでなく、チェジュやコンゴ、チリ、台湾など政治的、民族的な問題を抱える国や地域を訪れ、歴史や文化、地元の人々と直接触れ合う中から、軍隊や基地問題、戦争をどうとらえ、記録し、後世にどうつなげるかを学んでいるという。

 この日のリーダー高里鈴代さんからレクチャーを受けた後、「米軍は問題もあるかもしれないが、日本は憲法9条があって自らは戦うことが出来ないので、米軍がいることで平和が守られているのではないか?」と鋭い質問が返ってきた。「米軍は日本を守るためにいるのではない~」との高里さんの説明に大きくうなずいて帰って行った。

 このような学校や教育が日本にもあるのだと知り、きっと頼もしい大人に成長するであろうと感動した。

 

 

 

 
 

 辺野古ゲート前をはじめ、安和、塩川など抗議行動の現場で、このところ問題になっているのが、沖縄防衛局の威圧的な態度である。

 これまでは民間警備員の後ろに隠れるようにして、「工事車両が入ります。すぐに立ち退いてください」とハンドマイクでがなり立てるだけだったのが、最近は警備員の前に出張ってきて、直接座り込みの市民に指示するようになった。

 先週は警備員の肩越しにゲートの中の写真を撮ろうとした市民を引きずり倒したと問題になった。行政の一職員でしかない彼らには、抗議の市民に指示し排除するなど、身体的に接触・強制する権限はない。戦争政策を進める国家権力を笠に着て、市民を見下した威圧的態度を許してはならない。

 正午前の2回目の行動には40名が座り込んだ。

 私も要請があったので、前日の渡嘉敷島での「集団自決」の慰霊祭について報告した。「集団自決」は、いざ戦場になったとき軍隊は住民を守るどころか、自らが生き残るために住民を犠牲にするという典型的な実例であると訴えた。 


 三回目、午後3時前の座り込み、冷たい雨が降り出した。 

 この日は、JICAのメンバーとしてミャンマーでボランティア活動する友人に誘われて、辺野古からの帰り沖縄市で行われた映画の上映とトークイベントに参加した。

 ミャンマーで医療活動する耳鼻科医・大村和弘医師を描いたドキュメンタリー映画「Dr.Bala(ドクターバラー)」。今日二つ目の感動と希望に出会った。人間ってやっぱり素晴らしい。

 

2023年3月30日リンクURL

「集団自決」4年ぶりに慰霊祭 ~ 渡嘉敷島

 78年前の沖縄戦で、米軍が初めに上陸した慶良間諸島では、激しい艦砲射撃の後上陸して来た米兵と、捕虜になることを阻まれた日本軍とのはざまで、多くの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。

 渡嘉敷島では3月28日、日本軍の命令によって、それぞれの避難壕から、島の北側にある北山(ニシヤマ)に集められた住民329人(当時の人口1000人余)が、予め軍属を通して配られていた手榴弾などにより犠牲となった。

 島では33年忌を過ぎても、毎年3月28日に村主催による慰霊祭を行ってきたが、コロナ禍により中断され、今年は4年ぶりの慰霊祭となった。

 「忘れじと 思う心は白玉の 塔に託して 永遠につたえん」

 慰霊祭の会場となった「白玉の塔」は、当初(1951年)実際に「集団自決」のあった場所に建てられたが、そこが米軍基地に接収(1960年)されたため、現在の場所に移転建立された。 

 白玉の塔には、12時過ぎからの慰霊祭を前に多くの村民や遺族が花束を持ってお参りに訪れていた。

 塔には「集団自決」だけでなく、徴兵などで島外(県外、国外も含む)で亡くなったすべての戦争犠牲者594柱の名前が刻まれている。沖縄戦では県民の3人に1人が亡くなったとされるが、集団自決のあったこの島では、実に村民の半数余が犠牲になったことになる。

  

 「捕虜になるのは非国民」、米軍に捕まると、男は耳や鼻を削がれ目を突かれて殺される。女はレイプされ、股裂きにされて殺される」と日本軍から教え込まれたことを信じた住民は、手榴弾やカマ、クワ、カミソリなどを持っていた者はまだいい方で、幼い子は岩や木に打ち付けて殺し、母が子を、兄は弟妹を、夫が妻をと手にかけ、自らは最後に首を吊って息絶えた。その光景は、とてもこの世の出来事とは思えない、「ありったけの地獄を集めたよう」だったと伝えられる。

 一方、「捕虜になるのは非国民」と言った当の日本軍は、隊長以下多くが米軍に投降し、捕虜となって生き延びた。

「犠牲となられた方々の思いは、平和の守り神として子々孫々まで語り継いでいく」と、式辞を述べる新里武広村長。

 渡嘉敷小中学校、阿波連小学校の児童生徒全員で折った平和の千羽鶴が供えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

就学前の孫たちとともに手を合わせる家族連れや、島の野に咲く慶良間ツツジやテッポウユリを手に焼香する人の姿も。 

 当時、祖父母が学校長として島に赴任していて、「集団自決」の犠牲になったという姉妹が、自作の「命どぅ宝」という歌を奉納することが、毎年恒例となっている。

 慰霊碑の参道を彩る慶良間ツツジの花が、まるでこの日を待っていたかのように、いま真っ盛りである。

 この日は、さらに午後から渡嘉敷区の公民館で、体験を語り合い、語り継ぐための「慰霊のつどい」が開かれた。その模様は項を改めて記したい。

 

 

2023年3月28日リンクURL