「集団自決」4年ぶりに慰霊祭 ~ 渡嘉敷島

 78年前の沖縄戦で、米軍が初めに上陸した慶良間諸島では、激しい艦砲射撃の後上陸して来た米兵と、捕虜になることを阻まれた日本軍とのはざまで、多くの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。

 渡嘉敷島では3月28日、日本軍の命令によって、それぞれの避難壕から、島の北側にある北山(ニシヤマ)に集められた住民329人(当時の人口1000人余)が、予め軍属を通して配られていた手榴弾などにより犠牲となった。

 島では33年忌を過ぎても、毎年3月28日に村主催による慰霊祭を行ってきたが、コロナ禍により中断され、今年は4年ぶりの慰霊祭となった。

 「忘れじと 思う心は白玉の 塔に託して 永遠につたえん」

 慰霊祭の会場となった「白玉の塔」は、当初(1951年)実際に「集団自決」のあった場所に建てられたが、そこが米軍基地に接収(1960年)されたため、現在の場所に移転建立された。 

 白玉の塔には、12時過ぎからの慰霊祭を前に多くの村民や遺族が花束を持ってお参りに訪れていた。

 塔には「集団自決」だけでなく、徴兵などで島外(県外、国外も含む)で亡くなったすべての戦争犠牲者594柱の名前が刻まれている。沖縄戦では県民の3人に1人が亡くなったとされるが、集団自決のあったこの島では、実に村民の半数余が犠牲になったことになる。

  

 「捕虜になるのは非国民」、米軍に捕まると、男は耳や鼻を削がれ目を突かれて殺される。女はレイプされ、股裂きにされて殺される」と日本軍から教え込まれたことを信じた住民は、手榴弾やカマ、クワ、カミソリなどを持っていた者はまだいい方で、幼い子は岩や木に打ち付けて殺し、母が子を、兄は弟妹を、夫が妻をと手にかけ、自らは最後に首を吊って息絶えた。その光景は、とてもこの世の出来事とは思えない、「ありったけの地獄を集めたよう」だったと伝えられる。

 一方、「捕虜になるのは非国民」と言った当の日本軍は、隊長以下多くが米軍に投降し、捕虜となって生き延びた。

「犠牲となられた方々の思いは、平和の守り神として子々孫々まで語り継いでいく」と、式辞を述べる新里武広村長。

 渡嘉敷小中学校、阿波連小学校の児童生徒全員で折った平和の千羽鶴が供えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

就学前の孫たちとともに手を合わせる家族連れや、島の野に咲く慶良間ツツジやテッポウユリを手に焼香する人の姿も。 

 当時、祖父母が学校長として島に赴任していて、「集団自決」の犠牲になったという姉妹が、自作の「命どぅ宝」という歌を奉納することが、毎年恒例となっている。

 慰霊碑の参道を彩る慶良間ツツジの花が、まるでこの日を待っていたかのように、いま真っ盛りである。

 この日は、さらに午後から渡嘉敷区の公民館で、体験を語り合い、語り継ぐための「慰霊のつどい」が開かれた。その模様は項を改めて記したい。

 

 

2023年3月28日リンクURL