74年目の6月23日 慰霊の日の摩文仁① ~ 平和の礎(いしじ)

毎年6月23日 慰霊の日が巡り来るたびに亡き母を思う。平和の礎の一番奥 平和の火の向こうに太平洋を望むこの絶壁のどこかで、沖縄戦の末期、日本兵の手榴弾自決に巻き込まれて、全身に手榴弾の破片を浴び満身創痍の身で、再び海に飛び込んだという母、「死ぬより生き残ることが怖った」と。

米軍に助けられて、かろうじて生き延びた母は、4年前90歳で亡くなるまで、ついに摩文仁に来ることができなかった。

 沖縄戦の全戦没者の名を刻む「平和の礎」。まだ梅雨の明けぬ雨模様の中、今年も訪れる人は絶えなかった。

お墓でもないのに、花や料理を備え手を合わせる人たち。

刻まれた名前を愛おしそうに指でなぞりながら、小さな声で名を呼ぶ女性。まだ生まれたばかりの妹だったという。

礎の前で三弦を奏で歌う人たちがいた。多良間村出身者の名前が刻まれた礎の前で、毎年慰霊祭を行っているという沖縄本島在住の多良間の方々だった。歌は多良間スンカニ、故郷をうたった唄は、何よりの供養になることであろう。

敵味方なく、沖縄戦全戦没者の名前が刻まれている礎には、米軍関係者も訪れる。あとでわかったが、この後行われる県主催の追悼式典に招かれた在沖米軍・陸・海・空・海兵隊のトップの面々だった。

平和の礎とともに開設された県立平和資料館の赤い屋根瓦が、まるで絵画のように梅雨空に映えていた。

2019年6月25日リンクURL