コザ騒動から50年 ~ 沖縄への差別・抑圧 何も変わっていない

 今年は、沖縄にとって歴史的な様々な出来事が節目を迎えた重要な年だった。沖縄戦から75年、少女暴行事件から25年、日本軍「慰安婦」問題で昭和天皇に有罪判決を下した国際女性戦犯法廷から20年など。そのほとんどがコロナ禍で記憶を振り返る催しが行えないまま1年が終わろうとしている。

 そして今日12月20日は、「コザ騒動」から50年の節目の日だ。私自身にとっても忘れられない出来事となっている。

 事件は、基地の街コザ(現沖縄市)で飲酒運転の米兵が起こした交通事故の処理を巡って、怒った市民らが米軍車両を次々ひっくり返し焼き討ちにした民衆蜂起である。後に「コザ騒動」と呼ばれた。

 騒動が起こった背景には、この年の9月、糸満市で、やはり飲酒運転の米兵が沖縄の女性を轢殺、しかし加害者の米兵は裁判で無罪放免となった。いつものことだ。(米兵が強姦殺人事件を犯し捕まっても、裁判で無罪になる事件が相次いでいた)

 コザの事故現場に居合わせ市民らが、事故処理当たっていた軍警に対して「また糸満のときと同じことになるのではないか!」と騒ぎだしたことが発端だった。それが導火線となって、戦後ずっと続いてきた米軍の圧政に対する鬱積した怒りに引火、爆発したのだ。

 当時私は地元ラジオ局の報道部に勤務。前夜仕事があがって、行きつけの割烹で同僚の記者仲間たちと酒を飲んでいた。そこへ、「コザで大変なことが起こっている」との情報が入る。時計はとっくに日付が変わり、同僚たちは未明の暗闇の中を現場へすっ飛んで行った。私は「危ないから、女はダメだ!」と、一人置いて行かれた。(そんな時代だった)

 ラジオ局の報道は「音」が命。私たちは「まず音を録れ!」と、先輩たちから骨の髄まで叩き込まれてきた。同僚記者が現場で必死にマイクを向けた録音機には、人々の「魂の叫び声」が詰まっていた。「沖縄のこの25年間の犠牲。何万という人が死んでいて、沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人は人間じゃないのか、ばかやろう。この沖縄人の涙を分かるのか!」。1人の青年が、記者の持っていた録音機のマイクを奪い取り、叫んだという。(マイクがスピーカーに繋がっていると思ったのではないか?)

 この「音(声)」は節目の日のニュース番組でよく使われてきた。NHKでもたまにこの「音」が流れる。

 当時、沖縄のメディアは新聞、放送を問わず、ライバルというよりマスコミ人としての仲間意識が強かった。今では考えられないことだが、他社ともよく「音」や「映像」の貸し借りや、情報提供をしあっていた。そこには何より真実を伝える、本土へ沖縄の状況を知らしめるという沖縄の報道人としての使命感があった。この音を録った同僚も気軽にNHK(当時はOHK)に音を提供したのだ。

 沖縄出身の芥川賞作家・東峰夫の小説を原作に、やはり沖縄出身の新城卓監督が製作した映画「オキナワの少年」でもこの音が使われている。だが、「音」のキャプションには「NHK提供」となっており、驚いた。間違いは正されなければならない。

 あれから50年。沖縄の米軍基地をめぐる状況はちっとも変わっていない。いや、むしろひどくなっている。本土復帰によって米軍に日本政府が加わった圧政が50年積み重なってひどくなるばかりだ。

 辺野古ゲート前に座り込んでいると、ときどき言いようのない怒りが込み上げてくることがある。それは私だけではないだろう。いまの沖縄は、いつまたコザ騒動のようなことが起こっても不思議ではない。

 

※ 「コザ騒動」「コザ暴動」と、二つの言い方がされる。当時の沖縄の報道各社は「暴動」ではなく、「騒動」することに、話し合って決めた。車の焼き討ちは見境なくやったのではなく、米軍車両だけが炎上した。商店街の店に乱入して略奪するようなことも全くなかった、ということから、いわゆる「暴動」ではなく、「騒動」としたのである。それは現在も踏襲されている。誰かリーダーがいたわけでもないのに、見事に統率がとれていたと言われている。

 一方で、「騒動」では「沖縄の怒りが伝わらない」として、こだわって「コザ暴動」と表現する人たちもいる。

※ 写真は『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

 

 

 

 
 

 

2020年12月21日リンクURL