70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ⑤

その日、友人から「渡嘉敷の慰霊祭に行きたいという若い女性がいるので、案内してほしい」と頼まれた。

彼女・Gさんは、琉球大学をこの3月に卒業したばかりのドイツからの留学生。

渡嘉志久の浜辺で…

渡嘉志久の浜辺で…

「集団自決」の日本軍関与が争われた「大江、岩波裁判」が卒論のテーマだったという。

彼女は友人二人(日本人)を伴って渡嘉敷島にやってきた。

慰霊祭の前に、まず島の自然を味わってもらいながら、人々の暮らし、文化、歴史を大まかに話したうえで、いくつかの戦跡を案内、午後から一緒に慰霊祭に参加した。

 

後日、Gさんから、若者らしい瑞々しい感性でとらえた慰霊祭の感想をメールで頂いたので紹介したい。

Oさん。昨日は大変お世話になりました。一回も会ったことない私たち3人を港で出迎え、島を案内していただき、こころから感謝しています。
この記念日に初めて渡嘉敷島に行ったので、少し緊張しました。しかし、港に着いたらすぐOさんと会えて、私にとって渡嘉敷島は人間の顔をもつようになり、つながりを感じて、安心しました。

3月28日に行われた慰霊祭

3月28日に行われた慰霊祭

渡嘉敷島の様々なことと「集団自決」についてのお話は興味深かったです。「集団自決」の現場や「慰安所」があった場所をみて、地域の人は、たとえ70年経っていようとも、その出来事をけっして忘れることは出来ないだろう、と思いました。でも、こうした日本の歴史を否定しようとする人彼らを支持する人たちがいます。そいいう人たちこそ渡嘉敷島に足を運んでほしい、と後で3人で話しました。

慰霊祭に参列した中学生

慰霊祭に参列した中学生

 

 

慰霊祭での中学生の詩も大変感動しました。友人のOOはあとで、子どもたちは「意見の違う人を理解しよう、立場の違う人を認めよう」ということの大切さをわかっているのに、なぜ大人はこれを忘れているの?と問いました。

宮城千恵さんのスピーチも印象に残りました。「自分のおじいさんに会いかった」という気持ち、「会えない」辛さが伝わりました。なぜ会えないのか、なぜ亡くなったのか、という問いは遺族から離れない、重い遺産であると思いました。

2015032814280000私は子供のときから祖父母からナチスや戦争の体験を聞きました。渡嘉敷島の人とはもちろん血のつながりはありませんが、自分の家族の経験や国の暗い歴史を引継いでいる人は世界のどこであっても同じですし、そのような経験、過去を踏まえて「今」をどう生きるべきかを考え続けさせることでもあると思いました。強い連帯感を覚えました。

最後に、吉川さんとお話が出来る機会を作っていただき、ありがとうございます。渡嘉敷島の「慰安婦」のことや、吉川さんの「集団自決」の体験について貴重な資料を頂きました。

28日は色々考えさせられた日であったと同時に、美しい島に魅せられ、3人ともまた渡嘉敷島に行きたいという気持ちになりました。Oさんが自分の故郷を外から来ている人に開いたことに対して感謝しています。

慶良間海峡…70年前、この海を米軍の軍艦が埋め尽くした

慶良間海峡…70年前、この海を米軍の軍艦が埋め尽くした

最後に、
「集団自決」という表現は、「適切ではない」という主張がある。
「日本軍によって死に追い込まれたのであり、自ら死を選んだのではない。ましてや赤ん坊や子どもは自決などできない。「集団自決」に軍の関与はなかったとする側に、戦争美談として利用されている」として、「強制集団死」という表現が使われている。

「自決」が軍隊用語であることからも、その主張は全くその通りであると私も思う。
その主張を理解したうえで、「集団自決」は長年にわたって使われてきた表現であり、島の人々がいまも使い続けていることを尊重して、このブログでは「」付きで「集団自決」と表現していることをお断りしておきたい。

2015年4月4日リンクURL