今日9月18日は沖縄県が条例で定めた「しまくとぅばの日」
制定から7年たって、なぜだか今年は例年になく盛り上がっている。
かつては「方言」としてさげすまれ、
あるいは、教育上よくないと厳しく禁止、処罰の対象ともなった時代があつたと思うと、 隔世の感がある。
戦争中は「方言を使う者はスパイ」とみなされ、日本軍に射殺された住民も少なくない。
戦後も、語彙の少ない劣った言語と決めつけられて、
学校では、「標準語励行」が年間を通しての週訓であった。
それは、私が高校性のころ(1960年代はじめ)までまだ残っていた。
それでも、反抗的で、悪ぶるのがかっこいいと思っている男子生徒は
わざと「方言」を使った。
叱られたり、罰せられたりしたくない、いい子ちゃんでいたい女子生徒は
ほとんど「方言」を使うことはなかった。
その名残で私は、聞くことはほぼ完ぺきにできる(おばあちゃん子だったため)」が
しゃべることがほとんどできない。
そのことはいま、悔やんでも悔やみきれない後悔となっている。
「しまくとぅば」と呼ばれるれるようになったのは
ここ10年くらい前からである。
いぜんは、「方言」が一般的だった。
しかし、琉球の言葉は、日本語のなかの一方言ではなく
琉球諸語として言語学的にも認められたこともあって
ある時期から「うちなぁぐち」と呼ばれるようになった。
しかし、「うちなぁ」は、沖縄本島だけを示すもので
宮古・八重山をはじめ、島々で言葉がまったく違い
首里、那覇の言葉を中心する「うちなぁぐち」には含まれないとの異議が出され、 「しまくとうば」へと変遷してきた。
「しまくとぅば」の「しま」が漢字でないのは
同じ沖縄本島でも、地方や地域で言葉は大きく異なる為で
「シマ」には、島々だけではなく、地域あるいはふるさとの意味合いがあることから
「しまくとぅば」となってきたと、私は理解している。
昨年あたりから、那覇市が、役所を訪れる市民へのあいさつ・「はいさい・はいたい運動」展開したり、 学校教育のなかに取り入れる努力をするなど
行政が率先して「しまくとぅば」ムーブメントを起こし、県民に広がりつつあるのはなぜなのか?
そこには、辺野古への新基地建設、オスプレイの強行配備など
日本政府の沖縄に対する差別としか言いようのない理不尽な仕打ちと
無関係ではないと感じるのは、私だけではないだろう。
地元新聞・沖縄タイムスは、今日の社説を「うちなぁぐち」で書いている。
『忘んなよ「沖縄ぬ肝心」(忘れるな、沖縄の魂の叫び)』
沖縄出身の詩人・山之口獏が、戦後沖縄に帰省した折、出会った故郷の人たちに沖縄の言葉であいさつをしたら、 「こんにちは」と日本語で返ってきたことに対して
「ウチナァグチマデン、イクサニサッタルバスイ
(沖縄の言葉までも、戦争にやられてしまったのか!)」と 嘆いたという有名なエピソードがある。
また、沖縄の先人は古くから
「しまくとうば忘りいねぇ、国失ないん (島の言葉を失うことは、国を失うことである)」と教えている。
言葉は生き物、文化、時代をうつし、暮らしのなかでしか生き残れない。
ふるさとの言葉を失ってしまった自らの反省として、40年以上も前から、うちなぁぐち・しまくとぅばを、仕事のなかでも積極的に使ってきた者としては、願わくば、過激なナショナリズムに陥ったり、その道具に利用することだけは、してほしくないと心から祈っている。