‘23慰霊の点描⑴ 平和とは程遠い光景 ~ 沖縄全戦没者追悼式

  4年ぶりに一般参加者を受け入れての、県主催「戦没者追悼式」に、県外から来た友人を案内して、レンタカーで摩文仁の平和祈念公園に向かった。

 摩文仁が近づくにつれて、ものものしく目を光らせる警察官が、1メートルおきに立って人々を規制。昨年よりさらに周辺警備が厳しく、許可車両以外は平和祈念公園に近づくことさえもできない。この殺伐とした光景は「平和」とは程遠い。悲しい日本社会の今を見せつけられた。

 平和記念公園から車で5分ほどの臨時駐車場に誘導され、そこからシャトルバスで会場に運ぶシステムになっていた。

 公園入口の十字路で、平和市民連絡会の仲間たちが、岸田総理の参加に抗議してスタンディングを行っている。バスの窓から手を振ると、何人かが応えてくれた。

 後で知ったが、抗議行動が終わって、メンバーの一人がトイレにと向かうと、数名もの警官がぞろぞろとついて来て、途中3度も持ち物検査をされたという。

 そんなこんなで時間がかかり、会場に着いたのは式典が始まる1時間前。今度は会場入り口で、空港の手荷物検査のようなチェックを受けた。見ているとバッグやリュックを開け、中の小さなポーチなどもいちいち開けて見る。ひとり5分もかかった。

 昨年まではコロナ禍で、招待者以外一般県民は参加できなかったが、それでもロープで仕切られただけだったので、外から式典の様子を見ることが出来た。今年はぐるりとテントが張りめぐらされ、外からは一切中が見えない。何のための、誰のための慰霊祭だろうか?これでは県民からも敬遠されるだろう。

 すぐ隣の「平和の礎」周辺は、お参りする県民であふれていたが、大型テントの下、用意された席もかなりの部分がうまらず、空いたイスが何か虚しい。 

 デニー知事と並んで会場入りする岸田総理。私が座った席が演壇からかなり遠く、平和宣言を読み上げるデニー知事や、平和の詩の児童の姿をカメラでとられることはできなかった。(玉知事の平和宣言、児童の平和の詩は、別項で紹介する)

 それらしく官僚が書いたであろう文章をただなぞるだけの、岸田総理の白々しい式辞を聞きながら、私は何度も「うそつけ!」と、心の中で叫んでいた。

 

 この日は摩文仁だけでなく、県内各地に建立されたいくつもの慰霊碑で「追悼式」、「慰霊祭」が行われた。

 愛する家族、親せき、友人、「あの戦(いくさ)さえなかったら…」と、戦争で理不尽にも奪われた命への哀惜は、何年経っても癒えることは、ない。

 

2023年6月25日リンクURL

勝つ方法は諦めないこと ~ 辺野古浜テント座り込み 7000日集会

 2004年4月19日、辺野古新基地建設(当時はヘリ基地と呼ばれていた)に向けたボーリング調査を阻止するため、辺野古漁港となりにテントを張り、座り込みと海上行動を開始してから、今日(6月18日)で7000日(19年)になるという。

 浜テントでの座り込み行動は、さらにその8年前の1997年から地元のお年寄りたちが、新基地建設に反対して港の前に闘争小屋を建てて坐りこんだ闘いを継承するもので、加えると実に26年もの歳月になる。

 今日は浜のテント前に250名の人たちが集い、これまでの闘いを振り返った。

 海勢頭豊さんの歌で始まった集会は、主催者代表、各界代表がそれぞれ挨拶。「辺野古の闘いは、日本の民主主義、人権を守る闘いの先頭に立っている。辺野古デモクラシーだ。」「この地での闘いは日本の憲法、地方自治、人権を守る闘いでもある」と。

 

 

 

 

地元代表はあいさつの中で「我が家では、座り込みが始まった少し前に生まれた子どもが、今年30歳になった。節目節目で写した家族写真は、全て基地がらみで、苦笑してしまう。

 これほど長い闘いになるとは思わなかったが、地元の者だけでは、ここまで長く闘い続けることはできなかった。この場で多くの出会いがあり、全国、世界へと繋がり、たくさんの人たちに支えられてやってこれた。心から感謝を申し上げたい。

辺野古新基地は、私たちがあきらめない限り絶対に完成しない。これからも心を一つにして闘い続けよう!」と、勝利までなお一層の連帯を呼び掛けた。

 また、この長い闘いの中では、一日も早い闘いの勝利を願いつつ、無念にも志半ばで旅立たれた方々も少なくない。それらの方々に想いを馳せながら、明日からの闘いに向け、決意を新たにした。

 

 

 

2023年6月18日リンクURL

「沖縄・米兵による女性への性犯罪」改訂版発刊 犯罪件数2・5倍 1000 件に増 ~ 基地・軍隊を許さない行動する女たちの会発行

 沖縄の女性たちが記録し続ける「沖縄・米兵による女性への性犯罪」が、このほど7年ぶりに改訂され出版された。

 通称「犯罪年表」と呼ばれるこの記録集は、戦後米軍の長期駐留下で起きる米兵士による女性に対する性暴力を、犯罪統計や新聞記事、歴史資料、証言などあらゆる記録を掘り起こすなどして、これまで13版(1945年~2021年12月)を重ねている。

 2016年に出された12版では、400件余だった犯罪件数は、今回の13版では一挙に2・5倍、1000件を超えた。 この7年間にこれだけ米軍人による性犯罪が増えたというのではなく、これまで表に出てこなかった事例を丹念に調べ上げることで増えた件数である。でもそれだけで驚くのはまだ早い。

 性暴力というのは、実際に起こった件数の四分の一程度しか表に出てこないと言われる。性暴力を受けても訴えないケースがほとんどで、実態はこの何倍もある可能性が高いのだ。

 沖縄の女性たちが、この犯罪年表をつくるきっかけになったのは、1995年に起きた米兵3人による少女レイプ事件だった。折しもその年は、「女性への暴力」がテーマの国連第4回国際女性会議が北京で開かれた年。沖縄からは100人近くの女性たちが実行委員会を結成し、11の領域で12のワークショップを持って参加していた。その中に「軍隊による女性への性暴力」をテーマにしたワークショップも含まれていた。

 北京会議を終えて帰ってきた女性たちを待ち受けていたのが、留守中の沖縄で起こった「少女レイプ事件」だった。まさに女性たちが訴えていたことが、北京会議の最中に起こったのだ。女性たちはすぐに声を挙げ、抗議行動を展開、女性に対する暴力は人権侵害であり、犯罪である」「軍隊は構造的暴力」と、ジェンダーの視点で基地・軍隊を問うた。やがて全県的な基地反対運動へと拡がっていった。(それが普天間基地返還⇒辺野古新基地問題へと繋がってゆく)

 沖縄の女性たちは、米国民に対し、世界の警察を標榜してアメリカが世界中に展開している軍隊が、紛争地や同盟国の駐留地で、その国や地域の人たち、特に女性や子どもたちにどんな影響を及ぼしているのかを訴えるため、アメリカピースキャラバンも敢行した。その中で問われたのが、「それでは一体米軍の女性への性暴力がどれほど起きているのか?」ということだった。そこで生まれたのが「沖縄・米兵による女性への性犯罪」(犯罪年表)である。

 ベトナム戦争終結後も、アメリカが世界中で起こす紛争・戦争はいまも続いている。その中で軍隊の女性への性暴力も起こり続けている。これらを無くすには、地球上からすべての基地・軍隊をなくす以外にはないのだ。

 

2023年6月16日リンクURL