平和の祈り いまだ届かず! ~ 戦後77年「慰霊の日」の摩文仁点描

 梅雨が明け、肌を刺すような日差しの中、四姉妹で摩文仁に向かった。

 県主催の全戦没者追悼式は、コロナ禍のため今年も招待者のみ300人に限定され、一般市民は参加できないとわかっていたが、この日はやはり摩文仁で祈りたい。

 11時すぎ、平和の礎のある平和祈念公園に近づくにつれ、交通渋滞がひどくなっていく。やっと公園の入り口までたどり着くと、「許可証がないと入れない」という。公園内、一般車両は駐車不可とのこと。岸田総理が来るというので、抗議行動を警戒してか、警備が強化されたようだ。

 昨年までは、一般駐車場も用意され、式典には参加できなくても、縄張りの外から、中の様子を見ることが出来、声も聞こえたのに、どういうことだろうか!

 式典の様子を伺い知ることが出来ないのは残念だが、仕方がないので、先に魂魄の塔からお参りすることに。

 終戦の翌年、捕虜収容所から解放された人々がこの地で見たのは、いたるところに散乱する戦死者の骨だった。その遺骨を拾い集め建立されたのがこの「魂魄の塔」。

 家族や親せきがとこでどのように亡くなったのかわからず、遺骨も戻ってこないという人たちは、ここにお参りする。 

 「ひもじかっただろう」「水がほしかっただろう」と、当時に思いを馳せ、お花だけでなく水や食べ物のお供えものも多い。

 知り合いの唄者の方が、三線で仲間の方々と共に、歌声を奉納していた。誘われて、最後に「沖縄を返せ」を一緒に歌った。 

 魂魄の塔から国道へ抜ける手前に、女子学徒の慰霊碑の一つ「ずいせんの塔」がある。生き残りの方々や同窓生も高齢化で出席者が少なくなる中で、慰霊祭も自由参拝になっているという。今年、クラウドファンディングで、周辺整備を実現した。 

 「ひめゆりの塔」。ここも、コロナ禍で観光客や修学旅行が激減し、ひめゆり資料館の存続が危ぶまれた。戦争の貴重な証言者でもある戦跡や慰霊碑を、どう維持管理して後世に伝えていくか、どこも課題を抱えている。傍らで、平和ガイドの研修が行われていた。

 追悼式典が終わり、総理が立ち去れば、平和公園内の駐車場も解放されるであろうと想定して、ひめゆりの塔近くで昼食をとりながら時間をつぶしてから、再び「平和の礎」に向かった。

 入り口付近で、ちょうど総理らVIPと表示した車列とすれ違った。それでもまだ駐車場は解放されず、やむなく公園から少し離れたところで、他の人たちたちに交じって路上駐車し、歩いて公園に入った。

 昨年に続いて、ガマフヤーの具志堅隆松さんが、22、23日と、「遺骨の交じった南部の土砂を、辺野古埋め立てに使うのは戦没者への冒涜、二度殺すことになる」と断食座り込みで抗議行動を行なっている。

 式典終了後、玉城デニー知事も激励に立ち寄ったという。

 

 

 

 

  人々に赤いシールで、南部土砂を埋め立てに使うことの賛否を問う具志堅さん。土砂の中から遺骨を見つけることがいかに難しいか、実際に土砂を見せて示す。 

 式典会場となった大型テントは、すでに解体作業が始まっていた。会場周辺への立ち入りを禁じたロープは、二重になって昨年より大幅に拡大されている。

 ロープの中へはまだ入れなかったので、大きく迂回して、平和の礎へ。

 

 刻銘された父方の祖父と、祖母のいとこ、そして、これまでうかつにも確認していなかった叔母(母の妹)の名前を見つけ、お詫びをして手を合わせた。

 「平和の礎」で嬉しかったのは、幼い子どもも含め、若い家族連れが多かったこと。戦争体験の風化が言われるが、この子らへはしっかり伝わっていくことだろうと感じた。

 

 泣きたくなるほど美しい青く澄んだ空と海。沖縄の平和への祈りは、いまだ天に届かない。

 

 

2022年6月24日リンクURL