ペ・ポンギさん30年忌追悼シンポジウム

 20日(土)は、南風原文化センターで行われた「ペ・ポンギさん30年忌の追悼シンポジウムに参加した。主催者(沖縄恨之碑の会)の予想をはるかに超える140人余が詰めかけ、関心の高さが示された。

  パネリストには、一番身近でぺ・ポンギさんに晩年まで寄り添った金  賢玉(キム・ヒョノク)さん、長年、慰安婦・女性の人権問題に取り組んでいる高里鈴代さん、「ハルモニの遺言 ペ・ポンギさんの戦後」を新聞に長期連載した記者・松永勝利さんが登壇した。

 金 賢玉さんは、『1974年にぺポンギさんに出会った。騙されて日本に連れてこられ、日本軍の「慰安婦」とされたうえ、戦後は異郷に捨て置かれるという過酷な戦後を一人で生き抜いてきたぺ・ポンギさんの心は、当初かたくなに閉ざされていた。同胞として気長に交流する中で、徐々に心を開いてくれた』と、エピソードの数々を語った。

 そして、最後に「日本はまだ戦後処理をしていない。早く解決できるようにお互いに努力していきたい」と発言を締めくくった。

 ぺ・ポンギさんを取材、新聞に長期連載をした松永勝利さん。「ぺ・ポンギさん本人や、金 賢玉さんなど取材・連載する中で、拒否されたり、叱られたりしながら多くのことを学んだ。 ぺ・ポンギさんが、戦後どんな思いで、一人の女性として生き延びてきたかを、最大限伝えたいと思った」と。

 

 当時、那覇市の婦人相談員としてぺ・ポンギさんと出会った高里鈴代さんは、戦時中の慰安所のこと、いわゆる「慰安婦問題」の発端となったぺ・ポンギさんの存在の重要性、これまでの活動を具体的に報告。会場からの疑問、質問に答えた。

 

また会場から、ペ・ポンギさんが那覇市に住居を移した後、生活保護のケースワーカーとしてかかわった那覇市の久場副市長からの報告があり、ぺ・ポンギさんの当時の様子が伝えられた。

 私も会場から発言を求め、ぺ・ポンギさんとは直接お会いする機会はなかったが、渡嘉敷島で生まれ育った者として、間接的ながら浅からぬご縁があったこと、現在アリランの碑を訪ねて島を訪れる平和学習のガイドをつとめていることなどを報告した。

 

 シンポジウムは休息をはさんで3時間にわたり、内容の濃いつどいとなった。

 司会を務めた恨の碑の会の安里英子さんは「20回忌の追悼集会も行ったが、今回は次の40年忌に向けて、この問題を若い人たちに橋渡しするつどいと位置付けて取り組んできた」と述べ、次世代への継承に期待した。

 

 

 

2021年11月22日リンクURL

新基地を止めるために名護市長選に勝利しよう! ~ 今日(11月17日)の辺野古

 コロナが収束して、長い間抗議行動を休んでいた人たちも参加するようになり、ゲート前は活気にあふれている。今日も久々の方たちの顔が何人も見えた。

 

 しかし、こちらが元気だと機動隊も気合を入れてくる。今日の機動隊は少々短気で乱暴だった。

 

 一回目の搬入が終わって後の休息時間、参加者各グループの近況や活動報告の合間を縫って、歌・三味線の余裕も戻ってきた。 

 そして、来年2月に差し迫った名護市長選挙の活動状況を、名護市議の大城敬人さんが報告した。

 「現職陣営は、衆議院選挙で勝利した勢いをかって、選挙事務所も宣伝カーも引き継ぎ、前回同様ステルス作戦で深く潜航しながら活動を広げている。

 そして前回は5000名とも言われた公明党の選挙運動部隊と70億円もの官房機密費が投入されたが、今回はさらに強化され、政府が丸抱えした選挙戦になるだろう。

 しかし、辺野古の新基地を止めるためには、前回選挙の反省を生かして、どうしても勝抜かなければならない」と訴えた。

 集会の間も、上空をオスプレイが爆音をとどろかせて飛び回る。たった一機でもこれほどの騒音なのに、辺野古に新基地ができると100機が常駐するのだ。いつたいどれだけの轟音になるのか想像もつかない。が、人々の穏やかな暮らしが破壊されることだけは確かだろう。それは容易に想像できる。

 

 

 

2回目、3回目の座り込みもあまり人数が減ることなく、抗議行動を貫徹。

 今日の沖縄地方は曇り空で、暑くもなく寒くもなく、穏やかな天気の一日だった。

 

  帰途のバスの窓から、西の空いっぱいに広がった白い雲が、まるで翼を広げた鳳凰のように見えた。何かいいことが起こる前兆であってほしいと願った。

 

 

2021年11月17日リンクURL