秋空に「政権交代」の幟はためく ~ 今日(10月20日)の辺野古

 巷は選挙一色である。しかし、辺野古の工事だけは止まらない。辺野古を止めるために選挙も大事だが、工事が続く限り、抗議の声を弱めるわけにはいかない。
 いつものように辺野古へ向かう。

 辺野古ゲート前にも「政権交代」の幟がはためいていた。

 辺野古へ通う人たちは、大抵各地域でも様々な活動に頑張っている人たちが多い。辺野古が気になりながらも、選挙運動で大きな役割を担っている人々ばかりだ。やはり今日のゲート前は、いつもよりかなり人数が少なかった。

 選挙戦が終わるまでは、各曜日の責任者中心の抗議行動になりそうだ。「少数精鋭だ!」と、自らを鼓舞してゲート前に座り込んだ。

 

 島袋文子さんも、久しぶりに元気な姿を見せた。

 久々の車列、それでも一回目の9:00は38台で、数百台が当たり前だったころからするとくらべものにもならない。抗議行動も10数分で終わった。

 

 メインゲートの前にピンク色もさわやかに酔芙蓉の花。テント下のベンチに描かれた絵もかわいい。

 

  

 

かわいくないのは、いつもながらゲートの中での軍事行動だ。

 ゲートの中に入る車両チェック、いつもは 日本人の軍警が行っているが、今日は物々しく武装した米兵が車のトランクまで開けさせて点検していた。 

 正午の2度目の座り込み。午後から選挙活動に行く人もいて、さらに人数が減った。

              

 コロナ予防のためできるだけ接触を避けるようにしているが、機動隊に排除されるギリギリまで粘る人もいて…。

 今日も楽しい豪華ランチバイキング。

 ちょうど昼食が終わったことろに一人の外国人がやってきた。ひと箱のお菓子を差し入れ!とテーブルの上に置いて、目の前の金網を指さし、言った。「明日、この中で軍事演習がある。大きい音も出るかもしれないが、びっくりしないでください」と。

「あなたは何者?」と聞くと、「基地で働いているが、軍人ではなく民間人。基地を管理する仕事をしている」という。親切か、それとも何か意図があってのことか測りかねたが、「毒は入っていないよね?」と、冗談をいいつつ、差し入れのお菓子はいただいた。

 15:00、三回目の座り込み。さらに人数が減って、16名。ダンプもさらに減って数台が入っただけだった。

 沖縄にも秋はやってくる。日差しは強かったが、ジリジリするような暑さではなく、木陰に入るとひんやりするほど穏やかになっている。

 街中に住んでいると気付かないが、緑の多いやんばるは、季節の移り変わりが、直接肌に伝わってくる。

 辺野古の集落で、去年はじめて見つけた赤い崑崙花、今年も華やかに咲いていた。

 ~不屈の座り込み2663日目の辺野古から~

 

 

 

 

 

 

2021年10月20日リンクURL

政権交代・日本の未来をかけた総選挙 公示

 文字通り日本の未来がかかった選挙である。沖縄選挙区では4区に11名が立候補。県庁前の県民ひろばで行われた1区赤嶺政賢さんの出発式に参加した。

 

 「野党が一つにまとまれば自・公政権に勝てる」と言われて久しい。それぞれの野党が小さくまとまって権力争いに明け暮れた結果、ここまで政治の腐敗を許してきた。やっとこさ今回の総選挙で野党共闘の第一歩を踏み出した。

 野党共闘共通の公約の一つに「辺野古新基地NO」が明記された。遅きに失する感もないではないが、とにかく一歩前進だ。

 市民・野党共闘の魁は、翁長知事を生み出した沖縄の「オール沖縄」である。様々な切り崩しにあっているが、小意を置いて(捨ててではない)、大道に着く!先駆けの沖縄で負けるわけにはいかない。

 

 

 

2021年10月19日リンクURL

古からの海上交通の要所 ~ 渡嘉敷時島 ➁

 

 西展望台からケラマ海峡を望む。この日はあいにくの曇り空で残念ながらいつもの抜けるよう碧い海の輝きはお預けとなったが、それでもこの絶景にはいつもながら息をのむ。

 ケラマ諸島の島々を繋ぐこの海は、単に美しいだけでなく、琉球王朝時代の古から、(現在の)中国はもとよりタイ、カンボジアなどとの国際的な外交・交易航路の要所でもあった。

 国立青少年自然の家東側高台にある『赤間山ヒータティヤ(烽火台)跡の碑』

<航海を見守る古の狼煙台>

 江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として始めて烽火(のろし)を考え、中山支配下の各間切(まじり)や周辺の島々に烽火台を建てました。その中の一つが、現在赤間山の頂上に残っている烽火台跡です。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、渡嘉敷島のこの赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。

 
 烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは、一筋の煙、2隻のときは、二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は、三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたきかたがあったのです。唐船の時代、慶良間の 島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。

 これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて、島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山のヒータティヤーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため、這根樹(はいねじゅ・ヒッチェーシ)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。(渡嘉敷村公式ホームページより  抜粋)

 しかし、皮肉なことに沖縄戦ではこの航路が、アジアから南下してくる米軍を導き、慶良間諸島上陸、そして沖縄全体へと戦火を広げていくことになる。サンゴ礁の海はいたるところに環礁があり、近海の航路を熟知していないと座礁する危険性が高い航海の難所、慶良間海峡で2~300百隻の米軍艦がひしめくなかでも事故が起こらなかったのはなぜか?

 江戸末期、日本の開国を求めてやってきたペリー艦隊は、琉球をベースキャンプにして日本に向かった。そのときにつくられた海図が沖縄戦でも使われたのだという。

 秋風がたち始めたこの日、アリランの碑入り口にある大きなソテツに、雄しべに抱かれるようにたくさんの赤い実が熟れていた。

 

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