古からの海上交通の要所 ~ 渡嘉敷時島 ➁

 

 西展望台からケラマ海峡を望む。この日はあいにくの曇り空で残念ながらいつもの抜けるよう碧い海の輝きはお預けとなったが、それでもこの絶景にはいつもながら息をのむ。

 ケラマ諸島の島々を繋ぐこの海は、単に美しいだけでなく、琉球王朝時代の古から、(現在の)中国はもとよりタイ、カンボジアなどとの国際的な外交・交易航路の要所でもあった。

 国立青少年自然の家東側高台にある『赤間山ヒータティヤ(烽火台)跡の碑』

<航海を見守る古の狼煙台>

 江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として始めて烽火(のろし)を考え、中山支配下の各間切(まじり)や周辺の島々に烽火台を建てました。その中の一つが、現在赤間山の頂上に残っている烽火台跡です。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、渡嘉敷島のこの赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。

 
 烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは、一筋の煙、2隻のときは、二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は、三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたきかたがあったのです。唐船の時代、慶良間の 島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。

 これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて、島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山のヒータティヤーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため、這根樹(はいねじゅ・ヒッチェーシ)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。(渡嘉敷村公式ホームページより  抜粋)

 しかし、皮肉なことに沖縄戦ではこの航路が、アジアから南下してくる米軍を導き、慶良間諸島上陸、そして沖縄全体へと戦火を広げていくことになる。サンゴ礁の海はいたるところに環礁があり、近海の航路を熟知していないと座礁する危険性が高い航海の難所、慶良間海峡で2~300百隻の米軍艦がひしめくなかでも事故が起こらなかったのはなぜか?

 江戸末期、日本の開国を求めてやってきたペリー艦隊は、琉球をベースキャンプにして日本に向かった。そのときにつくられた海図が沖縄戦でも使われたのだという。

 秋風がたち始めたこの日、アリランの碑入り口にある大きなソテツに、雄しべに抱かれるようにたくさんの赤い実が熟れていた。

 

2021年10月19日リンクURL