大雨洪水警報の中で 座り込み ~ 6月12日の辺野古

 雨に煙る那覇の街。辺野古へ行く日は朝6時過ぎに家をでる。

 昨夜(12日)は夜中に何度も大雨洪水警報の避難指示エリアメールが鳴り響いていた。自宅が川のすぐそば(マンションのベランダから2メートルほど先)にあるため、大雨の時はいつも川の増水が気になる。警報のたびにベランダから川を覗き込んだ。睡眠不足での辺野古行動は少し辛い。

 9時前、ゲート前に座り込む頃には、少し小降りになった。歌や踊りで元気をつける。非暴力の抵抗に歌や踊りは無くてはならない大切なツール。水曜日は特に歌や踊りが得意な人たちが揃っている。みんなが歌っている間は、機動隊も排除をためらう。(その日の指揮官にもよるが…)

 強制排除はいつもより10分ほど遅れて始まった。

 ひとりに4~5人の機動隊が張り付く。

 高齢で座り込みはできないからと、辺野古ゲート前のテントに、毎月2リットルペットボトルのミネラルウォーターを、13ケースも届けてくださる方がいる。この日も一時間以上もかけて自ら水を運んできた。こういう目に見えない応援に支えられて、辺野古の闘いは続けてこれたのだ。 

 辺野古の集落では、花をいっぱいつけたゆーなんぎい(ゆうなの木)の大木があちこちで見られた。混じりっけのない透き通るような黄色のさわやかさが好きだ。

 

 

 

 

                  

ゲート前の座り込みももうすぐ(7月7日)満10年となる。

 

 

2024年6月13日リンクURL

「戦争は次の戦争を生み、平和は実現しない ! 」~ 6月5日の辺野古

梅雨の晴れ間の快晴、秋のような薄雲が空の青に映える朝、いつものように辺野古へ向かう。

 那覇発7:00平和市民連絡会のバスは、いつもの常連さんに、県外からの参加者が加わりほぼ満席。今日も暑い、熱い一日が予想される。

 辺野古メインゲートのテントに到着すると、先日東京での集会で使われた色とりどりのバナーが出迎えてくれた。

 9:30 一回目の座り込み。

 6・23に向けて、やんばるから糸満の摩文仁まで平和行進を続けている宗教者の方々が参加。韓国からのメンバーが、祈りと平和のメッセージを読み上げた。

 

 

 

 

 

 20分ほどで全員が機動隊に排除され、たくさんのミキサー車や埋め立て資材を積んだダンプが入る。

 正午前、2回目の座り込み。

 県外から毎月のようにやってきて座り込みに参加する弁護士さん。前日新聞報道で明らかになった、沖縄戦の日本軍最高司令官・牛島中将の辞世の句が、自衛隊ホームページに掲載されていることについて「これまで自衛隊は旧日本軍との繋がりをイメージさせるような事柄は避けてきたが、いまはもうそれさえ気にしなくなった。沖縄だけでなく、靖国神社への公務参拝も平気でやるなど、戦争政策を隠さない。戦争は次の戦争を生み、決して平和にはつながらない」と批判した。

 午後3時過ぎ、三回目も40人近くが座り込んだ。

 空は、朝のうろこ雲から、生まれたての入道雲のような、夏らしい雲に変わっていた。

 

 

2024年6月6日リンクURL

やはり自衛隊は「日本軍」だったか! ~ 自衛隊ホームページに牛島中将辞世掲載

<6月3日 琉球新報>

 

 「軍民一体となって、最後の一兵となるまで闘え」と命令を残し、自らは無責任にも自決して果てた沖縄戦の日本軍最高司令官・牛島満中将。その辞世の句が自衛隊の公式ホームページに掲載されていることが明らかとなり、「旧日本軍と繋がる」として、識者などから批判の声があっている。

 本人は、軍人としての誇りを守ったつもりかもしれないが、そのために多くの兵士と沖縄の人々(民間人)が犠牲になった。自決ではなく白旗をあげていれば、地獄さながらの苦しみの中で失うこともなった命だ。

 湧き上がる批判にもかかわらず、削除はしないという。これまで旧日本軍のイメージにつながるようなことは、必死になって避けてきた自衛隊が、いまや堂々と「軍隊の顔」を見せるようになった。時勢はもうここまで来ているのかと驚愕する。

 

 

2024年6月6日リンクURL