密約大好きの日本政府、アメリカに迫られて原潜が日本に寄港する際の放射線監視の緩和を、国民に内緒で認めていた。復帰前の沖縄の港には制限なく自由に出入りしていたので、横須賀や佐世保の基地も沖縄と同じように自由に使いたかったのだろうと、専門家は分析している。
<7月18日 琉球新報 ↑↓ >
NPO法人:奥間川流域保護基金、沖縄環境ネットワーク、沖縄平和市民連絡会、ジュゴン保護キャンペーンセンター(SDCC) の4団体は、 昨日(6/10)午後3時から県庁記者クラブで緊急抗議の記者会見を行い、沖縄県警が蝶類研究家・宮城秋乃さんの自宅を家宅捜索を行い、執拗に宮城さんに事情聴取を行っていることに対し抗議声明を発表した。
記者会見に臨んだ各団体の代表は、「宮城さんの行動は、研究者として貴重生物を守るための環境保護運動であり、家宅捜索は市民運動への圧力だ」「人道に反する」「土地規制法の先取り」と訴えた。
<6月11日 琉球新報>
抗 議 声 明
「捜索されるべきは米軍基地とその跡地である」
〜宮城秋乃さんの活動を支持し、沖縄県警の強制捜査に抗議します〜
今月4日に沖縄県警が東村在住の蝶類研究家・宮城秋乃さんの自宅を家宅捜索し、パソコンやタブレット、ビデオカメラ等を押収、以後連日の取り調べを行っているとの報道に接して、私たちは激しい怒りに震えました。
宮城さんは、自身の活動のフィールドであるヤンバルの森(世界自然遺産登録の価値をもつ生物多様性豊かな亜熱帯森林)を心から愛し、人間による環境破壊を憂い、森の生き物たちを守る活動を続けてきました。近年は返還された北部訓練場跡地の森を調査し、米軍の廃棄物を次々と発見しています。
宮城さんがこれまでに見つけた二千発以上の弾薬や照明弾の残骸、放射性物質を含んだ電子機器、廃土嚢やコンクリ塊、野戦食のパッケージゴミ等々、米軍が半世紀以上もの長きにわたりこの地で行った訓練で残した廃棄物の数々は、本来なら基地返還前に除去して原状復帰しなければならかったものです。にもかかわらず米軍はその責任を放棄し、日本政府もまた「北部訓練場の過半の返還」をうたいながら、おざなりの「環境調査」と「支障除去」でお茶を濁し、宮城さんが次々と発見しその存在を訴えてきた米軍廃棄物の問題にまともに向きあおうとせず、頰被りを続けてきました。
そしてこの間も、ヤンバルの森の生き物たちの繁殖期であるにもかかわらず米軍は大規模なジャングル戦闘訓練を行い、環境破壊を続けていました。北部訓練場内の森林で、米軍廃棄物は現在進行形で増加し続けているであろうことは想像に難くありません。
報道によると、このたびの家宅捜索は、宮城さんが森の中で発見した廃棄物を米軍に引き取らせるべく北部訓練場メインゲート前に置いたという二か月前の出来事が、通行を妨害した「威力業務妨害容疑」であるとのことです。まったくおかしな話です。今回の強制捜査は、国会で審議中の「重要土地調査規制法案」が成立すればどのような社会になるかを先取りして示すものでもあり、基地からの被害を受ける人々が逆に監視や規制・弾圧の対象とされてしまう同法案は即刻に廃案されるべきです。
米軍や沖縄防衛局は、本来なら自分たちが行わなければいけない廃棄物の回収をしてくれた宮城さんに感謝を捧げ、「今後は自分たちが責任を持って環境浄化に努めます」と誓うのが筋というものではないでしょうか。そして、捜索すべきは、宮城さんの家ではなく、返還された基地跡であり、北部訓練場の森の中にいまも遺っている米軍の廃棄物です。
私たちは沖縄県警に対して、宮城秋乃さんに対する取り調べをただちに取りやめるよう求めます。また、押収された宮城さんの私物を即刻返却するよう求めます。
私たちは在沖米軍および沖縄防衛局に対して、宮城秋乃さんを不当に被疑者扱いしたことを謝罪するよう、そして、これまで宮城さんが孤軍奮闘してきた米軍廃棄物回収作業の功績に深く感謝し、返還跡地を含めた北部訓練場の米軍廃棄物の回収と環境浄化作業に早急に取り組むよう求めます。
世界自然遺産登録の勧告を受けたヤンバルの森の生態系を未来永劫伝えていくために、繁殖期中の軍事演習は陸でも空でも一切行わないよう、さらには、北部訓練場の全面返還を、米軍および日米両政府に求めます。
声なき森の生き物たちのかわりに行動する宮城秋乃さんに敬意を表して
2021年6月10日
NPO法人:奥間川流域保護基金、沖縄環境ネットワーク、沖縄平和市民連絡会、ジュゴン保護キャンペーンセンター(SDCC)
あの日、私は仕事で上京し、池袋にある仕事先のビルの一室で、大震災に遭遇した。電車が止まり、宿泊先の新宿に戻ることができず、タクシーを待って2時間以上も行列に並んだ挙句、池袋駅近くのあるホテルのロビーの一角で、大勢の人たちに交じって床に座り込み、寒さに震えながら一夜を明かす経験をした。帰宅難民、帰宅困難者ということばは、後で知った。
<3・11新宿駅の帰宅困難者:東京都ホームページより>
そんな中で不思議に恐怖心はほとんど感じなかった。それは、大勢の人たちがいたが誰も騒ぐようなこともなく、みんなが冷静に行動していたことも大きい。が、ある意味達観の境地だったのかもしれない、といまは思う。なるようにしかならないという、うちなぁ人の「なんくるないさ」精神が支えてくれたような気もする。
震災後6年目の2017年5月、念願だった被災地訪問を、関東や東北に住む友人たちの力を借りて実現した。フクシマと、宮城県南三陸町と石巻市を訪ねた。
フクシマを案内してくれた方は、行く先々で放射能を測定した。ここは除染が済んで人々の日常生活が始まっている地域だった(だから私たちも行けた)が、国が定める基準値を大きく超えていた。
国の予算で建てられたという原発事故を伝える資料館を訪問。立派な建物の中にきれいな展示が並んでいたが、原発事故の本質を見事に覆い隠すシロモノになっていた。フクシマはすでに復興が成ったかのような印象さえ与えかねない。
震災復興オリンピックが、いつの間にかコロナ克服オリンピックに変貌してしまったように、国の原発事故隠ぺい、誤魔化し、その場限りは当時すでに始まっていたのだ。
いたるところに(民家のすぐそばにも)野積された汚染土の詰まったフレコンバッグの山ができていた。いまはどうなっているだろうか?
汚染土を焼却するごみ処理場から立ち上る煙は放射能も一緒には吐き出す。その夜開かれた学習会では、周辺の動植物に奇形などの異変が起きていることが、映像をもって報告された。次々と汚染土を運び込むダンプの列に、辺野古ゲート前の風景が重なって身震いがした。
南三陸町では、住宅地の嵩上げ工事が進んでいた。嵩上げされた土地からは海は全く見えなくなる。ふるさとの風景が一変するであろうことは一目瞭然だった。海とともに生きてきた人々の街である。いったいどれだけの人が、このふるさと喪失を受け入れられるだろうかと、思わずにはいられなかった。
テレビ画面で何度も見た「防災庁舎」の無残な姿を目の当たりにした。周辺のがれきはすでに片付けられていたが、津波の破壊力の凄まじさを実感させられる。
無残すぎて言葉も出ない。慰霊碑に花を捧げることが精いっぱいの行動だった。
被災した避難民を何百人も何カ月にも渡って無料で受け入れ続けたという”ホテルKANNYOU”に泊めてもらった。ロビーから見える海は穏やかで、帆立貝養殖の筏が波に揺られてのどかに浮かんでいた。命をはぐくむ海が、ときには命を破壊するときもあるのだということを、私たちは忘れてはいけない。
10年たってなお避難暮らしの被災者4万人超、死者・行方不明不明者2万2200人、理不尽にも一瞬にして大切な家族を奪われた遺族は、せめて一辺の骨のかけらでもと捜索を続ている姿が報道されている。戦後70が過ぎてもなお、家族の遺骨を探し続けている沖縄戦の遺族の思いに通じる。
あの震災を期に、文明に浮かれて地球を汚し続けてきた日本人(人類全てかもしれないが)は変わるのではないかと言われた。つながり合い助け合って暮らす、真に心豊かな社会が展望された。
しかし、私たちはまた同じ過ちを繰り返している。原発の再稼働がのその最たるものだ。原発事故がなければ、被害はここまで大きくならなかった。自らが住む命の星を、際限なく汚し続けている。その結果がコロナパンデミックである。果たして今度は変わることができるだろうか!