なは子どもの居場所 支援 贈呈式  ~ 琉球芸能うないの会 

 琉球民謡や琉球舞踊など、沖縄の芸能に携わる女性たちでつくるボランティアグループ「琉球芸能うないの会」が、子ども食堂やキッズクラブなど「なは子どもの居場所ネーッとワーク」に支援の物資を寄贈、その贈呈式が19日、那覇市社会福祉協議会で行われ、メンバーの一員として立ち会いました。 

 琉球芸能うないの会の盛和子代表から、子どもの居場所ネットワークを代表して宮城とも子さん、那覇市社会協の新本博司会長へ、およそ30万円分の食材、調味料、図書券などが贈られました。

 

 

 

 

 

 琉球芸能うないの会は、琉球民謡のプロの歌い手、琉球舞踊の師匠クラスの方々でつくるボランティアグループで、会のスタートは1997年、”飢餓に苦しむ北朝鮮の子どもたちにお米を送ろう”と活動したことがきっかけでできたグループです。以後主に子どもへの支援を中心に、県内、国内に限らず、被災地などへもチャリティ公演で基金を造成、支援、そして慰問公演を行ってきました。 

 その活動履歴は以下の通りです。

1997年12月:「北朝鮮の子どもたちにお米を贈るチャリティ」                  2000年4月:「愛隣園改築資金造成チャリティⅠ」                      2001年3月:「愛隣園改築資金造成 チャリティ Ⅱ」                    2002年2月:「がんばれ!渡嘉敷民謡コンサート台風見舞い慰問              2002年4月:「沖縄小児発達センター支援チャリティ」                  2003年4月:「和泉作業所設立支援チャリティ」                     2004年4月:「沖縄県手をつなぐ育成会支援チャリティ」                  2005年4月:「沖縄里親会支援チャリティ」                        2006年6月:「視覚障碍者療育作業所・てんてんをつくる会支援チャリティ」              2007年5月:「糸満人材育成基金チャリティ」                      2008年9月:「中国四川、ミャンマー、東北地震災害見舞いチャリティ」          2009年5月:「伊是名老人会慰問公演」                          2009年5月:「久米島老人会慰問公演」                          2011年4月:「東日本大震災チャリティ」

                          

 メンバーは、舞台で演じるだけでなく、出演者が自ら広告をとり、チケットを売って、毎回100万円以上、東日本大震災チャリティでは沖縄赤十字社を通じて、200万円の寄付を行ってきました。女性だけのその華やかな舞台は定評があり、いつも大入り満員。

 民謡会の大物ゲストの出演も忘れられない舞台がたくさんあります。

 昨年亡くなられ琉球民謡界の大御所・大城美佐子さんをはじめ、ネーネーズを卒業したばかりの古謝美佐子さんが、今や彼女の代表作となった「童神」をはじめて披露したのも、うないの会の舞台でした。レコーディング前のことです。

 女性しか出演できない舞台とあって、元ちゃんこと人気歌手の前川守賢さんが、女踊り「むんじゅる」を見事に舞い、拍手喝さいを浴びました。

 このような思い出話をするのも、実は「うないの会」、2012年以降休眠状態が続いていましたが、ここで、いったん組織的な活動を終了します。25年の活動のなかでメンバーの高齢化による欠員など、仕切り直しが必要となったためです。

 私自身は、発足から事務局としてもっぱら裏方を担ってきましたが、一つ大きな肩の荷を下ろします。

 唯一の心残りは、東日本大震災の被災地での公演が、何度か試みられながら、ついに実現できなかったことです。機会があれば、何らかの形でできることがあるかもしれないと、希望はすてていませんが…。

 これまで多くの方々にお世話になりました。これまでの経過をご報告するとともに、ご協力、支えて下さった皆様に、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

 

2022年5月20日リンクURL

本土の沖縄化 顕在化 由布院からの報告 ~ 5月18日(水)の辺野古

 前日までの梅雨寒が嘘のようなカンカン照りがまぶしい高速道路を、辺野古へ向かう。

 今週月曜日は、5・15平和行進に県外から来た方々が多く参加し、辺野古ゲート前は500人以上の人たちであふれ、ダンプの資材搬入を1時間半も止めたという。

 県警はいつもの人数では間に合わず、慌てて安和や塩川から機動隊を呼び寄せ、50周年式典のために九州各県から動員した機動隊も、再動員したとのこと。そのため、安和や塩川では土砂の搬出が止まったという。

 一転して、またいつものコロナ禍の水曜日。9時前、30名余が座り込んだ。

 工事用ゲートの搬入が終わると、息つく暇もなく、今度は11時の搬入に備えて第四ゲートへ。 

 機動隊がやってくる前に、まずは、工事車利用を先導してきた防衛局員の車との攻防がある。一度目は追い返したが、次は、機動隊の威を借りて、座り込んでいる人たちの足元ギリギリまで割り込んでくる。

 一回に100台以上入ることもある工事用ゲートに比べ、ここ第4ゲートでは、このたった4台(2台だけのことも多い)の工事車両を止めるための阻止行動である。それでも座り込み、抗議の意思を示さなければならない。 

 正午前、工事用ゲートでの2回目の座り込み。いつもは朝より人数が減ることが多いが、今日は逆に増えて40人近くが座り込んだ。

 昼食の後、午後2時の第四ゲートの搬入がないとわかり、3時までの3回目の座り込みまで少し時間が出来たので、テント下で参加者同士の意見の交流が行われた。

 自衛隊の日出生台演習場がある由布院から、毎年3~4回は辺野古に来ているという方から、最近行われた米軍演習の報告をがあった。

 沖縄の104号線越えの演習の一部が移転して行われている米海兵隊の実弾演習。このところ、米軍のやりた放題が目に余るという。事前に協定で約束した、夜間訓練の時間は守らない、実弾の種類、発射回数も増える一方、当初の演習内容とは質量ともに大きく違うという。

 地域の繁華街に米兵は外出させない、外出する場合は防衛局の職員がついて行くという約束もあるが、最近行われた演習期間は、毎晩200人からの米兵が街に繰り出し、闊歩、たむろして住民を不安がらせ、いかに抗議しても無視されているという。

 関東など都市部でも、最近市街地での米軍機の超低空飛行が頻繁に起こり、問題化している。本土の沖縄化が、いよいよ表面化してきたか! 

 午後3時、3回目の座り込みも、人数は減ることなく40人近くが座り込んだ。 

 梅雨の晴れ間、とても暑い、熱い一日だった。

 

2022年5月19日リンクURL

こそこそと会場入り ~ 復帰50周年記念式典の岸田総理

  50年目の5月15日。沖縄県と政府が合同で記念式典を行い、岸田総理が、式典に出席するというので、会場のコンベンションセンター前で抗議行動を行った。

 式典は2時からだが、会場のコンベンションセンター前には、正午前から抗議の市民らが詰めかけた。

 式典に出席する総理に抗議の声を届けようと、集まった市民を排除するのは九州各地から応援に集められた警察官(宮崎・熊本県警)。

 世界自然遺産に登録されたやんばるの森に、米軍が遺した実弾や放射能物質を含む廃棄物が、今も放置されていると訴える宮城秋乃さんも、実弾を示して抗議を行った。この声は総理に届くのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 抗議開始から2時間近く経って、会場に向けて総理の車が出発した情報はあったが、その姿はなかなか現れない。間もなくして、総理は別の入り口からコンベンションの敷地に入ったことがわかった。「聞く力」と言いつつ沖縄県民の声は聞くどころか、抗議する姿を見る事さえせず、裏口からこそこそと会場に入ったのだ。一国の総理がすることだろうか!恥ずかしい!失望する!

 式典のあいさつのなかで、玉城知事も、総理も辺野古新基地建設について、一言も触れなかったと、夕方のニュースで知った。(総理は式典後の記者会見で”辺野古唯一”と言及)

<追記>

 一方、コロナ禍でこの2年間組織的な行動が出来なかった5・15平和行進。今年は規模を縮小して、県外からの参加者も受け入れて14日のみ行われ、15日午前、那覇市民会館「なはーと」で県民大会を開催した。(参加者は事前予約制で限定されたため、私は参加できなかった)

<5月16日 琉球新報 ↑↑>

 

 

2022年5月16日リンクURL