56年間の仕事人生を卒業しました!

 思えば長い仕事人生だったなあ!と思う。

 19歳で入社した小さなラジオ局。60歳で定年後もフリーとしていくつかの番組をつくってきた。ここ10年は一つの番組に絞り、5分間月~金放送のミニ番組ながら、40年近く続く、この局でも2番目の長寿番組である。(この10年はちょうど辺野古のゲート前行動が始まったころと符合する)

 最後の収録が行われた今月初め、番組のしゃべり手であり、スポンサーでもある方からいただいた卒業祝いの花は、保存のきくブリザードフラワー(生花の一番美しい時期に色素を抜き取り、特殊な加工を施した花)。すぐに枯れてなくならないようにとの心遣いが嬉しく、胸に沁みた。

 親子2代にわたってお付き合いして来ただけに、お互いに愛着も並ではない。番組は局のベテランデイレクターに引き継がれ、これからも放送は続く。

 放送局の社長からは、「長い間お疲れ様」と、休日にも拘わらず、わざわざ出社して花束を手渡された。30代からお互いに切磋琢磨して、共に仕事をこなしてきた同僚でもある。局内ではいつも異端児的な存在だったので、フリーの仕事を終了するに当たって、まさか会社から花を送られるとは思いもよらず、驚き、感謝とお礼の声が詰まった。

 男社会のマスコミ業界で、報道、制作、営業(コピーライター)と渡り歩いたが、どの職種に行っても一匹狼か、女性はいつも私一人という状況の中、上司や仲間に恵まれ、かなりわがままな仕事をさせて貰ったと思う。

 沖縄の祖国復帰を挟んでの56年間、嘉手納B52墜落事故も、燃える井戸も、コザ騒動も、毒ガス移送も、復帰の朝も、交通方法変更も、通貨切り替えも、日中国交回復も、若夏国体も、国際女性北京会議も、少女強姦事件も、現場に立ち激動の沖縄を見つめ続けてきた。この仕事だったから、今の私がある、と言っても過言ではない。

 定年後は、自分がつくりたい番組を、自らスポンサーを見つけてきて番組をつくり放送するという手法で、自前の機材で自由に取材、週末のスタジオの空いた時間を使わせてもらうというわがままを受け入れてくれた会社には、感謝あるのみである。

 

2024年3月26日リンクURL