変わらぬ基地 続く苦悩 ~ 50年目の5月15日 地元紙(琉球新報)紙面

 復帰50年と言われても、何の感慨も湧いてこない。噴き出してくるのは怒りばかりだ!この50年はいったい何だったのだろう? 地元の新聞から何か感じ取ってもらえるだろうか!

 

<琉球新報 復帰記念特集号 5月15日一面>

<琉球新報 5月15日 社会面>

      

<琉球新報 社会面>

 

 今日の琉球新報は、50年前の5月15日の紙面(一面)もそのまま掲載した。

 大見出しが 50年目の今日と同じだった!「変わらぬ基地  続く苦悩」

 

 

 

 

 

2022年5月15日リンクURL

抗議行動4現場を行脚 ~ 今日(5月11日)の辺野古・第四ゲート・塩川・安和

 真白いいじゅの花香るやんばる路を辺野古へ。

 辺野古ゲート前では今週に入って月、火と工事車両の搬入はなく、今日もたぶんないだろうとの情報で、その場合は安和・塩川の抗議行動を応援にいくことを決めて那覇を出た。

 辺野古ゲート前へ着くと、いつもは40人は居並ぶ民間警備員は、両端に一人ずつ立っているだけ、今日も搬入はないと確信できた。

 安和、塩川に向かう前に第四ゲートの様子を見に行くことになった。 

 GWで一週間来ない間に、ゲート右側も100㍍ほどすっかりはげ山になりっていた。

 

 土砂運搬船の出入りがあわただしい。海保のゴムボートが出動待機している様子も見えた。

 工事車両の動きはなく、安和、塩川に向かうことになった。再び貸し切りバスに乗り込み、土砂の搬出元の一つとなっている塩川港へ向かう。 

 辺野古ゲート前では、いつも30~40人が座り込むが、ここ塩川港は毎日本部島ぐるみの有志が3~4人で頑張っている過酷な抗議行動現場である。テントも、木蔭もないなかで、一日中もくもくとダンプのまえを牛歩戦術で横断、抵抗・抗議する。 

 一つしかない港の入り口で、入るダンプと出ていくダンプが交差する中を、ドライバーに丁重に頭を下げ、手を上げてしっかり意思表示して、ゆっくりと道路を渡る。

 「いつもは一人か二人なのに、今日は大勢いるので元気が出る」と本部島ぐるみのメンバーが喜んだ。 

 

 土砂は直接台船に積み込まれ、2台のベルトコンベアーは、なぜか稼働していなかった。 

 牛歩戦術は入り口だけでなく、広い港内数か所でおこなうため、港中がダンプ溜りになった。

 車両のナンバーや台数をチェックしている人にたずねると、土砂を積んで入ってきたダンプが、土砂を船に積み込み、港を出ていくまでに一台40分以上かかっているという。 牛歩戦術大成功だ。

 12時前に塩川を離れ、近くの本部港のターミナルで昼食をとった後、今度は安和桟橋へ向かった。

 ここも牛歩戦術だが、安和桟橋の入り口は信号があるので、信号に従ってゲートの前を横断する。しかし、しびれを切らしたダンプが、違法にも右からも左からも正面からも、歩行者優先を無視して突っ込んでくる。

 

 港の中では、土砂が持ち込まれてうずたかく積まれていく一方で、さらにそれをもう一度積み込んで船まで運ぶためのダンプが港内を行き交う。

 

 辺野古のゲート前は、テントもイスも木陰もあり、決まった時間以外は休息をとることもできるが、塩川、安和は、昼食時間以外はずっと歩きっぱなしだ。そんなところで毎日抗議行動に来ている人たちがいることを忘れてはならない。

 まだダンプの 搬入が続く中、一部の人たちに後を託して3時過ぎ帰りのバスに乗り込んだ。那覇まで2時間近い帰路となる。

 長い一日だったが、梅雨のさ中ながら、ちらつきはあっても傘をさすほどの降りではないかったのが幸いだった。

 

 

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歌の道学で 人の道悟て 世間御万人にかなささりり ~ 第一回 宮里春行賞贈呈式・受賞者顕彰公演

 琉球古典音楽の二大流派の一つ、安冨祖流。その戦後隆盛を先導してきた宮里春行師の名を冠した賞が創設され、照喜名朝一先生(人間国宝)と西江喜春先生(人間国宝)がそれぞれ受賞、その授賞式と顕彰公演会が、7日琉球新報ホールで行われた。

 宮里春行師は、琉球古典音楽の源流と言われる安冨祖流絃聲会を、金武良仁、古堅盛保師から受け継ぎ、沖縄戦後消滅状態にあった琉球古典音楽の戦後復興に力を尽くした方である。

 その証の一つが、直弟子から二人の人間国宝輩出である。その名を冠した賞の第一号、第二号として照喜名朝一、西江喜春両人間国宝が受賞された。

 宮里春行師は、三線づくりの名手としても知られ、今回の受賞者のお二人には、宮里師が手塩にかけた三線が贈られた。三線の命である竿は、クルチ(黒木)と呼ばれる琉球黒檀が最高級であるが、戦後の三線ブームの中でとりつくされ、現在は輸入物がほとんどである。

 黒木は成長が遅く、三線がつくれるほどの大きさになるには、樹齢100年を要すると言われている。三線の作り手としての宮里師は生前、折に触れて黒木を集め、自分がつくる一生分の沖縄産黒木の竿を用意されていたという話は有名である。

 今回受賞者に送られた三線は、春行先生が遺された現存する47本の竿の中から、照喜名、西江両師が自ら選び、現代の名工によって三線がつくられたという。

 贈られた三線を手にした西江喜春師は、その場でチンダミ(調弦)、名曲の出だしを一声だけ張り上げた。(定評ある美声を最後まで聞かせてもらえるかと、誰もが一瞬期待したが…)

 人間国宝という近寄りがたいほどにえらくなられても変わらぬ茶目っ気ぶりに、会場からどよめきと笑い、大きな拍手が沸いた。

                 

 

この日照喜名師は、体調を崩されて登壇できず、代理のかたが賞状と三線を受領。ご本人は二階席から、家族に付き添われて、授賞式・顕彰公演を見守られた。

 照喜名師も、非常に明るく朗らか、誰にも気さくに声をかけてくださるお人柄で、多くの弟子や踊り手に慕われる方である。

 このお二人の個性的で人間味あふれる人柄や指導方法は、師である宮里春行師匠譲りであることが、最後に紹介された映像でよくわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安冨祖流絃聲会には、実に個性的な歌い手が多い。 それは、宮里師が常々「安冨祖流に工工四(声楽譜)はない。歌詞の心を己の心のままに歌う。形よりも、歌心です」とおっしゃっていた(三隅治雄氏解説文より)とのこと。伝統だからと画一的にするのではなく、それぞれの持つ歌心、個性を大切にしたのである。映像からその様子が伝わってきた。まるで古典舞踊を踊っているかのような、手ぶり豊かに歌の抑揚を指導していた。(安冨祖流は、稽古中工工四を見せない。向かい合って座った師匠の手を見ながら弾き、歌う)

 

「歌の道を学ぶことで、人の道を悟って、世間の人々に愛されるようになりなさい」春行先生のお人柄を彷彿とさせる詠歌である。

 

  私も西江喜春先生の不詳の弟子(只今中断中)であり、春行先生のつくられた三線で稽古をさせていただいている一人として、感慨新たに幸せをかみしめながら、授賞式と顕彰公演を楽しませていただいた。

 定年退職したら稽古を再開するという師匠との約束を、10年以上たってもいまだ果たせずにいる。公演終了後の会場で、お祝いのご挨拶にうかがったら、「何をまごまごしている。早く稽古に来い」と、笑顔のお叱りを受けた。

 

2022年5月8日リンクURL