沖縄的こころ~おもてなし

先日、高知から5・15の平和行進に参加するため30年来の友人が
沖縄を訪れたので、琉球料理の居酒屋で夕食をした。
その居酒屋での出来事である。

居酒屋に似つかわしくないあどけなさ

居酒屋に似つかわしくないあどけなさ

私たちが食事をしていると、
中学生と思われる男子生徒6人が賑やかに入ってきて
私たちの右隣の席についた。

「居酒屋に中学生?」
泡盛の居酒屋に幼児や小学生を含む家族連れが来るのは
さして珍しくない夜型社会の沖縄ではあるが

さすがに中学生だけのグループに
店内の客の目線が一斉に彼らへ注がれた。
沖縄の子どもたちではない様子。

私の連れが「どこから来たの?中学生?」と尋ねた。
「徳島から修学旅行、中学2年生」とのこと。

最近の修学旅行は、大型バスでの一斉行動ではなく
5~6人の少人数で、出来るだけ地元の人たちと触れ合うことを目標に
生徒自らが計画を立てて行動するのが主流になっている。

きっと「沖縄の料理を食べよう」と考えたに違いない。
その店は、泡盛居酒屋としては県内でも1~2の老舗なので
ネットなどで調べて来たのでしょう。

見ていると、まずソーメンチャンプルーが運ばれてきた。
しかし、6人で一皿である。
当然ながら、一人一口にもならない。
奪い合うように一つの皿にみんなの箸が集中し
3~4秒で皿は空っぽになった。

続いてゴーヤーチャンプルーが運ばれてきた。
やっぱり一皿である。同じ場面が展開した。
彼らの夕食の予算では、一皿が限界だったのでしょう。

私と友人は目を見合わせた。
考えていることが同じだったようだ。
彼らのために、もう一皿ずつ頼むことにした。
私の友人は、同じ四国ということもあって、母性がくすぐられたのかもしれない。

そのときである。
私たちの左隣にいた7~8名のグループの中から
50~60代の男性が立ってきて、大きな声で中学生たちにいろいろ質問をし
メニューの沖縄料理について解説を加えた。

おじさん登場!(柱の影)

おじさん登場!(柱の影)

5分も経たずに、中学生のテーブルにソーメンチャンプルー二皿が運ばれてきた。
目を白黒させている彼らに、店の人は「あのおじさんからのおごり!」と言った。
照れたような顔で、お礼もそこそこに彼らはすぐに料理に飛びついた。

ソーメンチャンプルーのお皿が空になる頃、今度は、ゴーヤーチャンプルーが二皿、ゆし豆腐の吸い物人数分。
さらに、もずくの天ぷらと麩チャンプルー二皿が運ばれて来ると、
同じグループの年配の女性が「それは私のおごり」と手を挙げた。

旧知の店のオーナーが私たちのところへやってきて
「あれで充分だと思うので、お二人の注文は取り消しましょうね」と
言いに来た。

私と友人は
「彼らの一生のよい思い出になるといいね」と話し合った。

沖縄も観光地化がすすみ、競争が激しくなって、世知辛い話が多い中、
久々に、古き良き沖縄のこころを目の当たりにして
友人と二人、ほろ酔い加減も気持ちよく、沖縄の夜を過ごすことが出来て、うれしかった。

おじさんと店主と記念撮影

おじさんと店主と記念撮影

2013年6月1日リンクURL

黄金言葉 くがにくとぅば(ことわざ)

沖縄では、「ことわざ」のことを「黄金言葉(くがにくとぅば)」といいます。

テッポウユリ

テッポウユリ

97歳の天寿を全うした我が祖母は(生きていたら111歳)
孫である私を叱ったり、諭したり、または褒めたりするとき、
よく黄金言葉を使いました。

「ユクシムニーやジョウ(門)までん通らん」
⇒「嘘は門を出るまでにはバレてしまうよ」とか

「ヤー(家)慣れーや外慣れー」⇒「家でのいつもの癖が外でも出てしまう」
つまり、「家ではだらしなくしていても、外ではちゃんとするから」なんて言い訳は通用しないよと、よく叱られたものです。

マキバブラシ~渡嘉敷にて

マキバブラシ~渡嘉敷にて

教えて貰った黄金言葉はたくさんありますが、中でも
私が好きなのは「チュイ タレイ ダレイ(一人 足れい足れい)」です。

どんな人も一人で「完全・完璧」とはいきません。
相手の欠点を責めるのではなく、それとなくカバーしてあげる。
自分の足りないところは、教えてもらう。
つまり、「お互いに足りないところを補い合う」という人間関係です。

 

また「みんながそれぞれ得意なことを持ち寄り、発揮して
何か一つのことをやり遂げる」、そんなときにも使われます。

かつては、それこそ近所同士で味噌・醤油まで貸し借りしたものです。
物心両面、足りないところをお互いに補い合うという
ここにも根底に「ゆいまーるの精神」が生きています。

野ボタン

野ボタン

祖母が語る黄金言葉は、子どものときは理解できなくても
大人になって、人生の大事な場面で
「あぁ、あれは、そういうことだったのか!」と
胸に落ちることがなんどもありました。
まさに黄金言葉です。

どこかでこれらの言葉に出会うたび
いつも私を抱いて眠ってくれた祖母のふくよかな胸の感触と ぬくもりをふくふくと思い出す今日この頃です。

2013年5月22日リンクURL

「橋下市長!私が証人です」~金福童(キムボットン)ハルモニが証言

一昨日(18日)、
韓国から金福童さんを沖縄に迎えて「ハルモニとの交流集会~こころで感じる「慰安婦」問題~という集いを開催した。

証言する金福童ハルモニ

証言する金福童ハルモニ

開口一番、橋本発言に対して、「慰安婦」は必要だったと言うだけで謝罪もしないのは人間ではない。
証拠はないというが、この私が、何よりの証拠です。
私は苦しみながらも、いま生きて、ここにいる。これ以上の証拠がどこにあるのか!」

いつもは物静かで、笑顔の優しい福童ハルモニの表情が
一瞬険しくなり、細い手が机を叩く。
目には涙がにじんでいた。

一緒に登壇した挺対協代表のユン・ミヒャンさんは「福童ハルモニは世界中を回って証言をしており、1000回続いている韓国日本大使館前での水曜デモでもいつも先頭に立って、若い人たちに未来を感じさせる話をしてくれる。どんな辛い話でも決して涙を見せたことがなかった」と語った。

その福童ハルモニが見せた涙だった。

この私が何よりの証拠です

この私が何よりの証拠です

慰安婦にされ地獄の苦しみを味わってきた
自分をはじめ多くの朝鮮半島の女性たちが
未だに苦しみ続けているというのに

日本の国の政治家たちの、謝罪するどころか、
まるで存在しなかったかのような発言に
吹き出す悔しさと怒りの涙ではないだろうか。

金福童さんは15歳のとき、旧日本軍に「挺身隊として日本の縫製工場で働け。
さもなくば母親を反逆罪で捕まえる」と脅され、狩り出された。
しかし行った先は日本ではなく、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシアなど
戦場の最前線で8年間、慰安婦として従軍させられた。

平日は14~15人、
土曜、日曜ともなると、朝8時から夜10時まで
それこそベッドからいっときも起き上がることも許されない状態で
50~60人もの日本兵の相手をさせられたという。
想像を絶する。

戦争が終わり、故郷・韓国に帰ったときは22歳になっていた。
別れたときは14歳。「再会した母は大人になった私の顔ががわからなかった」という。

この集会は橋本発言があったので企画されたのではない。

会場を埋めた若者たち

会場を埋めた若者たち

「慰安婦」問題をテーマにした集会などは右翼などの妨害にあうので
今回も、事前のPRは信頼できる友人・知人宛の、極限られた人たちにメールで知らせ、少数で心の通い合う交流集会にしようという計画だった

しかし、図らずも橋本発言のせいで、多くの関心が集まり、クチコミで特に若い人たちが会場にあふれた。

金さんは、24日、もう一人のハルモニ・吉元玉さんとともに
橋本市長に面会することになっている。

橋本氏に会ったら、
「必要というのなら、自分の妻や娘を(慰安婦)として差し出せるのか?」と
質したいという。

果たして、橋本氏は何とこたえるだろうか。

2013年5月20日リンクURL