74年目の6月23日 慰霊の日の摩文仁② ~ 県主催全戦没者追悼式

慰霊の日に合わせて山形、東京から沖縄を訪れた4人の友人たちを案内して、十数年ぶりに県主催の沖縄全戦没者追悼式に参列した。 

在職中は放送の中継スタッフとして何年も通っていたが、十数年ぶりの追悼・慰霊式典会場の風景は様変わりしていた。

まず目についたのは、異常ともいえる物々しい警備。居並ぶ警察車両は、それを目にするだけで不穏な空気を感じる。誰を守るためでもない、安倍総理を警護するための警備である。

かつては誰でも自由に出入りできたのに、会場は囲われ、入り口では空港並みのセキュリティチェック。バッグなど荷物はすべて開けて調べられ、ブザーが鳴るとボディチェックまで行われる。いつからこのような状況になってしまったのか!県民はまるでテロリスト並みの扱われようだ。

中に入ると、この大型テントの下に1500席ほどの椅子が並べられていた。

ここ2~3年、安倍総理の挨拶の最中「嘘つくな!」「帰れ!」などのヤジが飛ぶので、その対策と思われる警告板を持った、たぶん県職員と思われる人たちが会場全域に何人も配置されていた。

 が、さすがに彼らにも違和感があるのだろう。誰も掲げたりしているものはいなかった。折り曲げて持っていたり、だらりと下げた手にただ持っているだけという感じて、こちらがわざわざ近づいて読まなければ、何が書いてあるのかわからない状態。

開会まで2時間も前に入場したが、すでに前列のいい場所は埋まり、椅子に座ると、演壇が見えないようなところに座ることになってしまった。

 11時50分開会、正午の時報に合わせて黙とうから始まり、主なる出席者の献花が延々と続く。そしてやっと玉城デニー知事の平和宣言。

スピーカーを通して流れてくるデニー知事の声に聞き入った。

 辺野古をめぐって示した県民の反対の民意を無視して工事を強行する政府の対応を「民主主義の正当な手続きで示した民意を尊重せず、なおかつ地方自治をないがしろにするものだ」と厳しく批判。

4月に起きた米兵による女性殺害事件にも触れ「不平等な日米地位協定の改定を、政府の責任で対処すべき」と指摘した。

そして、最後に知事の思いを込めた沖縄のことばと英語で、平和宣言を締めくくった。玉城知事らしさがにじみ出た平和宣言だった。途中、参列者の間から何度も賛同の大きな拍手が巻き起こった。

また、「家族と友達と笑い合える毎日こそが本当の幸せ、生きているからこそ笑い合える」と平和の心をうたい上げた糸満市兼城小学校6年生・山内玲奈さんの平和の詩にも大きな拍手が送られた。

 書かれた文章をいかにも棒読みという感じの安倍総理の挨拶が始まったので、私たちは席を立った。

 わかり切った総理の挨拶など、聞く時間がもったいない。「嘘つくな!」「帰れ!」のヤジの声を背に、市民団体が主催する「国際反戦集会」の会場に向かった。

<↑会場に入る安倍総理>

 

2019年6月25日リンクURL

74年目の6月23日 慰霊の日の摩文仁① ~ 平和の礎(いしじ)

毎年6月23日 慰霊の日が巡り来るたびに亡き母を思う。平和の礎の一番奥 平和の火の向こうに太平洋を望むこの絶壁のどこかで、沖縄戦の末期、日本兵の手榴弾自決に巻き込まれて、全身に手榴弾の破片を浴び満身創痍の身で、再び海に飛び込んだという母、「死ぬより生き残ることが怖った」と。

米軍に助けられて、かろうじて生き延びた母は、4年前90歳で亡くなるまで、ついに摩文仁に来ることができなかった。

 沖縄戦の全戦没者の名を刻む「平和の礎」。まだ梅雨の明けぬ雨模様の中、今年も訪れる人は絶えなかった。

お墓でもないのに、花や料理を備え手を合わせる人たち。

刻まれた名前を愛おしそうに指でなぞりながら、小さな声で名を呼ぶ女性。まだ生まれたばかりの妹だったという。

礎の前で三弦を奏で歌う人たちがいた。多良間村出身者の名前が刻まれた礎の前で、毎年慰霊祭を行っているという沖縄本島在住の多良間の方々だった。歌は多良間スンカニ、故郷をうたった唄は、何よりの供養になることであろう。

敵味方なく、沖縄戦全戦没者の名前が刻まれている礎には、米軍関係者も訪れる。あとでわかったが、この後行われる県主催の追悼式典に招かれた在沖米軍・陸・海・空・海兵隊のトップの面々だった。

平和の礎とともに開設された県立平和資料館の赤い屋根瓦が、まるで絵画のように梅雨空に映えていた。

2019年6月25日リンクURL

沖縄の戦争はまだ終わっていない ~ 辺野古ゲート前で 未収骨戦争被害者の慰霊祭

朝7:00県庁前発のバスで安和に向かう。
途中、現地から連絡があり、今日安和ではトラック搬入の動きがなく、辺野古へ向かうようにとの指示。今日の抗議行動は安和ではなく、辺野古へと変更になった。

 8:20辺野古着。メインゲート前では、すでに毎朝早朝行動をしている人たちが、今日もアピール行動を開始していた。

辺野古も、今日はトラック搬入の動きがないという。いつもならすでにスタンバイしているはずの機動隊が見えない。

 いつもは、20~30人の民間警備員がずらっと並んでいる工事用ゲートも、ご覧の通り閑散。その中の基地のゲートもしっかりと門扉を閉じている。

 平日の今日工事が休みになる理由はただ一つ、明後日の慰霊の日に向けて、要人警護のために機動隊が辺野古や安和にまで手が回らないからだ。(慰霊の日は、県主催の戦没者慰霊祭に安倍総理をはじめ、外相や防衛相、沖縄担当相、衆参両議長らも出席する)警察の力を借りなければ辺野古の工事は一歩も進まないという事実が、改めて浮き彫りになる。

 それでも、定刻の8:30にはゲート前に座り込んで集会を行い、9:30に座り込みテントに移動した。

 6月の沖縄は慰霊の月、去る沖縄戦で亡くなった24万人余の戦没者の鎮魂を祈る日々が続く。

 当時、米軍は沖縄本島に上陸すると同時に、戦闘を進めながら、すべての住民を捕虜として強制的に拘束・収容した。ここキャンプ・シュワブは、住民の強制収容所となった場所の一つ。ここには、まだ収骨されないまま地下に眠る戦争被害者の遺骨があり、今日は10:00からその慰霊祭が行われた。

 遺骨収集ボランティア集団「がまふやあ」の具志堅さんの提案で3年前から行われるようになったゲート前での慰霊祭は今年で4回目。

 具志堅さんは訴える。「ここには2万人以上の住民が収容され、戦病死などで亡くなり埋葬された人たち400人と推定される。そのうち遺骨が収容されたのは302人(平和の礎に刻銘)。残りは収容所が戦後すぐに米軍基地にされてしまったため、立ち入りが認められず、収骨が行われていない。同じようなところが他にもたくさんある。そういう意味で沖縄の戦争はまだ終わっていない。

 戦争犠牲者の遺骨が収容されないまま基地がつくられ、今またその遺骨の上に新たな戦争犠牲者を生み出す軍事基地がつくられようとしている。それこそ生命への冒涜であり、許されることではない」と。

 黙とうのあと、お坊さんによる読経の中、全員が線香を手向けて、沖縄戦の全戦没者と、辺野古崎に眠る遺骨へ鎮魂の祈りをささげた。

 テント前に咲き誇るゴールデンカップ(アリアケカズラ)の黄色がまぶしい。生命の力強さを感じる。

2019年6月21日リンクURL