辺野古の工事費は被災地へ! この国はお金の使い方を間違えている ~ 1月17日の辺野古

 7:35 辺野古へ向かうバスの中、中城湾に昇る朝日がまぶしい。

 黒い雲に覆われた地球社会だが、暗雲の向こうには間違いなく輝く太陽がある。隠れているだけだ。明けない夜はない。海に注ぐ光の筋(天使の階段というそうだ)が、希望を感じさせてくれる。

 9時前、第一回めの座り込み。今日も辺野古での一日が始まる。

 代執行によって、いま命の海・大浦湾に投げ込まれている石材。捨て石と呼ばれている。まさに沖縄の姿そのものだ。日本政府にとって、沖縄はアメリカの機嫌を取るための捨て石に過ぎない。沖縄戦のときと同じように。そのときは米軍の餌食にされた。

 一回目の座り込みが終わった後、大浦湾側の瀬嵩の浜から海の様子を見た。今日は風が強く海が荒れているため海での作業は行われていないとのこと。捨て石の投入は行われていなかった。

 やんばる路を彩るケイトウの赤い色が目にまぶしい!

 ゲート前に戻ると、昨日渡嘉敷島に案内した韓国の若者たちがやってきた。正午の座り込みにも一緒に参加してくれた。

 今日1月17日は、あの阪神淡路大震災から29年目を迎える。

 当時大阪に住んでいて震災を経験したという女性が、「能登の被災地で寒さに震えながら過ごす人たちを見て、あの時の苦しみを思い出し胸が締め付けられる。辺野古の基地に1兆円?そんなお金があるのなら、被災地の人たちに救援物資を一刻も早く届けてほしい。1兆円もあれば、被災者の救援は、どんなこともできるのに、この国のお金の使い方は間違っている!」と大粒の涙を流しながら訴えた。

 

 

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平和学習ツアーのガイドで渡嘉敷島へ

 16日(火)は、韓国からの平和ツアーのガイドで、渡嘉敷島に行ってきた。


 去る五月にソウル市内の教会幹部の方々を案内したときのメンバーが、今度は自分の所属する教会の若い人たちを、送り出してくださったのだそうだ。

 「地上戦」、「集団自決」、「慰安婦」、史上最悪の戦場と言われる沖縄戦の、三大特徴であるこれらすべてが、さらに濃縮した形で起ったのが渡嘉敷島の沖縄戦である。ここに大きく朝鮮半島の人々が関わってくる。

 渡嘉敷島の慰安所に、日本軍の性奴隷として繋がれ、過酷な生き地獄を強いられた7人の女性たちは、朝鮮半島から騙されて連れてこられた女性たちだった

 沖縄戦当時、この小さな沖縄の島々に147ヵ所もの慰安所があったことが、わかっているが、その中でどんなことが行われていたかは、軍の機密とも相まって全く明らかになってない。唯一渡嘉敷島の慰安所だけ、慰安所の実態が明らかになった。それは、戦後も沖縄で生きた一人の女性の証言があったからだ。

 二度と同じことを繰り返さないためにも、彼女たちのことを記憶にとどめようと、この地に「アリランのモニュメント」が建立された。

 また、一枚目の写真は、特殊特攻艇(ゼロ戦の船版)の秘匿豪の前で写したものだが、この壕もまた朝鮮半島から強制連行された「軍夫」と呼ばれた人達が掘ったと言われている。

 「特殊特攻艇」は、日本軍にとって秘密作戦だったため、住民が米軍の捕虜になって軍機密が漏れることを恐れ、住民は集団自決に追い込まれた。 

 渡嘉志久ビーチの白い砂浜で昼食をとる若者たち。しっかり事前学習もしての沖縄平和ツアーだが、「知識としては知っていたが、やはり実際に現地に来なければわからないことがある。ひしひしと体に感じるものがありました」と感想を語ってくれた。 

 集団自決のあった北山(ニシヤマ)では、村花・ケラマツツジが開花、青い空に映えていた。

 

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警備費一日2100万円の正体見たり! ~ 1月12日の安和桟橋

 12日(金)、辺野古での「代執行許さない県民大集会」終了後(11時過ぎ)平和市民連絡会のメンバーは、安和桟橋に向かった。

 この日、辺野古の集会に参加したくてもできない人たちがいた。辺野古埋め立て土砂の搬出港である安和桟橋と本部塩川港からは、この日も休むことなく土砂の搬出が行われていたからだ。

 こちらだけが抗議行動を休めば、多量の土砂が辺野古へ運ばれてしまう。安和桟橋金曜日の責任者は平和市民連絡会の担当だったので、多くの人たちが辺野古で集う中、一部の人たちが名護市の安和桟橋前と本部塩川港で頑張っているのだ。時間を惜しみ昼食も移動するバスの中で済ませ、安和桟橋に駆け付けた。

 私にとっては実に2年ぶりの安和桟橋である。

 安和桟橋での抗議行動は、辺野古のように決められた時間に座り込むのではなく、国道から港に入るダンプを一台一台とめて、門の前を牛歩戦術でゆっくり横断することで、ダンプの数を一台でも多く減らす。

 従って、みんなで一斉に休息をとる時間はなく、一日中歩きっぱなしになる。自らタイミングを見計らって、30分に1回、5分程度の休息と水分補給をするよう自己管理しなければならない。かなり過酷だ。それでもこの日は、辺野古からの流れで、いつもより人が多かったので、スムースに交代で休息をとることが出来た。

 港の中を覗くと、積み置きの土砂の山をダンプに積み込むショベル重機が4台、フル稼働していた。

 ダンプの入り口だけでなく、出口でも同じように牛歩戦術の抗議行動が行われる。ここは国道に出るための信号機がないので、牛歩戦術は余計に効果があるようだ。

 安和では、機動隊は港の中で待機、民間の警備員だけがゲートで警備に当たっていた。彼らに、市民の抗議行動を規制する権限はない。

 安和桟橋では、午後7時までダンプによる土砂の積み込み続くが、私たちは明るいうちに那覇までたどり着かなければならない(那覇まで2時間半)ため、3時半には安和を後にした。

 久々に晴れて穏やかな青い海に、点々と浮かぶ十数隻の小型船。カヌーや抗議船が土砂運搬船に近づかないよう、防衛局に雇われた民間の監視船である。ひねもす波に揺られているだけで、高額の警備費を費やす。辺野古大浦湾にも、本部塩川港にも同じような監視船がいる。これが一日2100万円と言われる辺野古関連警備費の一部である。 

 路肩の植栽の根元に淵草で描かれた「命どぅ宝」の文字。人間一人に一つだけの命。命より大事なものはない。しかし、「武器をとるものは武器で滅びる」「武力で平和は守れない」。噛みしめるべき先人訓である。

 

2024年1月14日リンクURL