ケラマカチュー(鰹)の思い出 ~ 渡嘉敷島①

 16日は、高知県からの友人たちを案内して渡嘉敷島へ行ってきた。
 
 これまでこのブログで渡嘉敷のことを紹介するときは、沖縄戦の悲惨な話が多かったが、今回は文化遺産のエピソードを一つ二つ紹介したい。


 船着き場近くにある村営住宅の敷地内に、古い煙突が遺されている。慶良間諸島は、かつて全国的に名を馳せた鰹節の名産地だったことはご存知だろうか?その鰹節工場名残の煙突である。

 沖縄おける鰹漁の始まりは、隣の島・座間味村からである。1885年(明治18年)、鹿児島の漁師が座間味島を拠点にして鰹漁を始めたとされる。続いて宮崎や静岡の漁民もわずかなウミガネー(入漁料)をおさめ、豊かな漁場を持つ慶良間周辺の海で鰹漁を行い、莫大な利益を上げていた。

 自分たちに技術がないばっかりに、宝の海を前にしてただ指をくわえて見ているしかなかった座間味村の島人達は、1901年(明治34年)一念発起して、座礁して国頭村に流れ着いた静岡の漁船を買い取り、沖縄県人初の鰹漁をはじめたという。

 その座間味村から技術を学び、1904年(明治37年)、渡嘉敷島でも鰹漁が始まったのである。山が深く、豊かな薪と水に恵まれた渡嘉敷の鰹節つくりは数年を待たずして、「ケラマ節」と呼ばれる全国的なブランドになった。慶良間は日本3大鰹漁の名産地に発展、集落には瓦葺の家屋が次々と建つほど豊かになった。

 

 <どこまでも青く澄んだ空と海、海をはさんで向こうに見えるのは座間味の島々>

 私にも、子どもの頃のかすかな記憶がある。夕方、島に3隻あった鰹船が、大漁旗を掲げ、汽笛を鳴らして次々港に戻ってくると、大人も子供も駆け出して浜辺に集まってくる。伝馬船で次々浜辺に運ばれる鰹は、その場で解体され、鰹節工場に運ばれていった。浜辺にうずたかく積まれた鰹の頭、内臓などは村人が誰でも自由に貰っていくことが出来た。それらは島の人々の夕餉を飾った。だしの効いた鰹のアラのお汁、塩辛、白子、ハラミなど栄養豊富な食事だった。

 不思議なことに、浜辺に渦固く積まれた何千本という鰹の頭や内臓などは、いつもたくさん残り、子ども心にも、腐って白い砂浜が汚れるのを心配したが、翌朝にはきれいに跡形もなく消え去っていた。夜のうちに波にさらわれて沖に運ばれ、魚や海の生物たちの餌となって循環していたのだ。

 それほど隆盛した渡嘉敷島の鰹漁もいくつかの浮き沈みを経てやがて衰退してゆく。決定的だったのは1960年の米軍基地建設だった。重労働の上、一年に一度しか現金収入のない鰹漁に比べ、日銭が稼げる軍作業に人手を取られ、3つあった鰹節工場は成り立たなくなって消えて行った。

 しかし、島の基幹産業をつぶした米軍基地も、わずか6年後には撤退してしまう。地域の事情などお構いなしに、誰も、何の責任もとらず…。戦後の米軍支配によって産業基盤の成長が意図的に抑制され、復帰後50年がたってもいまだその後遺症を抱える沖縄の姿が、小さなコミュニティでは縮図となってわかりやすく表出する。その典型的な例である。

 
 

2021年10月18日リンクURL