「屈辱の日」。戦争に負け米国の占領下におかれたニッポンが、沖縄を人質として米国に渡すことで、再び独立国になれた1952年4月28日以来、沖縄の人々は4月28日をそう呼ぶ。
海上集会で互いに手を振り合う国頭村側からの船(奥)と与論町側からの船(手前) =28日午前11時53分、北緯27度線付近(小川昌宏撮影)
【国頭・与論】沖縄や奄美群島が日本から切り離された、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効から28日で70年となった。72年の復帰まで米統治下に置かれた沖縄と本土側の隔絶を象徴する北緯27度線付近で、国頭村と鹿児島県与論町は28日、沖縄の復帰を求めた海上集会を再現した。
今年は復帰50年の節目。記念行進や式典なども行い、分断の歴史を後世に語り継ぐことを確認した。海上集会には約140人が参加し、計21隻出港した。参加者は「両町村の『心の絆』を継承し、交流を深める」と宣言文を読み上げた。海上集会は1963年~69年に沖縄側と先に復帰を果たした与論町側の関係者が開催した。2012年に一度再現して今回10年ぶりに開催した。(長嶺晃太朗まとめ)
<4月29日 琉球新報記事 ↑>
70年目の 「屈辱の日」だった昨日(4月28日)、政府は沖縄県に対し、「辺野古の設計変更を認めろ!」と命令を下した。
<4月29日 琉球新報↑↓>
政府のやることに異議を唱えると「言うとおりにしろ!」と命令を下す。これでは地方自治は国の下請け機関でしかない。先日は、辺野古新基地に反対する住民の訴えも、裁判で門前払いにされた。政府の名のもとにどんな理不尽もまかり通るこの国では、不都合なこと・ものは、常に力の弱いところにおしつけられる。
6年前、元米兵によって殺害され遺体を遺棄された女性の性暴力事件も、この「屈辱の日」に起きた。積み重ねられる屈辱は、このままではこれからも続く。権力は常に「強さに拠り、弱気をないがしろにする」。弱小国民が救われる道はあるのか?