若者たちへ託す思い ~ 10月14日の辺野古

 辺野古へ行く日は、朝夕の過ごしやすさが救いになる。沖縄もやっと日中の気温が30度を割るようになった。いつものように7:00那覇発、8:20辺野古着。

 テント前では、すでにボランティアスタッフが、のぼりを立て、イスやプラカードを準備するなど、抗議行動の準備が整っていた。いつもながら、ありがたいことである。

  

 9:00の第一回の搬入には、25人が座り込み。水曜日の現場指揮担当は平和市民連絡会で、ゲート前で唯一女性がリーダーを務める。

 コロナ禍後再開された今月3日の県民大行動でも、女性の発言者がたった一人だったことで「偏っている!」と批判された。「ゲート前の座り込みは女性が7~8割を占めているのに!」と。ことあるごとに批判されるが、一向に是正されない。もっと女性の声が反映される集会の在り方を工夫するよう、女性たちから主催者のオール沖縄会議へ苦言が呈された。

 

 10:30、テントに戻って休息に入ったタイミングで、東京から和光学園高等部の2年生27人がやってきた。

 引率の先生によると、修学旅行や平和学習ではなく、「基地問題研究会」という活動があり、もっぱら米軍と自衛隊基地を訪ねる三泊四日の旅だという。

 高校生らは、まず、島袋文子さん(91歳)から、沖縄戦の体験、なぜ不自由な身体で毎日のようにゲート前に座り込みに来るのか、話を聞いた。


 文子さんは司会者に促されてマイクを握った。『沖縄戦のとき15歳だった。兄3人が兵隊にとられ、目の不住な母親と、まだ10歳だった幼い弟を抱えて南部の戦場を何日も逃げまどった。

 やっと見つけて入った防空壕は日本軍に追い出され、砲弾が雨あられと降る中を逃げる途中、2、3歩前を歩いていた人が艦砲に吹き飛ばされるような場面に何度もあった。自分たちもいつ死んでもおかしくなかった。

 ある日、赤ん坊を背に負い、幼い子の手を引いて歩いている若い母親がいた。背中の赤ん坊は頭がなかった。そのことに気づいていない母親に、「あなたの赤ちゃんは頭がないですよ」と教えてあげた。母親は背中の赤ん坊を道端に下ろし、上の子の手を引いて立ち去った。埋葬どころか、死んだ子のために涙を流す余裕すらなかった。立ち止まれば砲弾の餌食となるからだ。

 飲まず食わずの何日か目の夜に、弟が「お腹が空いた。水が飲みたいというので、暗闇の中、艦砲で大きな穴ができ水が溜まっているところを見つけて、木の葉で水をすくい、何度も通って弟と母親に、そして自分も飲んで水で腹を満たした。翌朝、明るくなってその水たまりを見ると死体が浮いていて、真っ赤な血の水を飲んだということを知った。そのことは、戦後母にも弟にも、二人が亡くなるまで、ついに語ることができなかった。

 私は、人の血で染まった水を飲んで沖縄戦を生き延びた。私が辺野古の基地に反対するのは、基地は戦争の道具であり、あの沖縄戦の苦しみ、みじめさを、子どもや孫の世代には絶対にさせたくないからだ。今度戦争が起こったら、戦場に行くのはあなたたちだ。誰かに言われたから信じるのではなく、自分の頭で考えられる人間になってください。

 いまの若者や、政治家もそうだけど、本当の戦争の醜さ、苦しみを知らない。体験した私は、それを伝えるために生かされていると思って、辺野古に通っている』

 若者たちは、島袋文子さんの壮絶な戦争体験を、身じろぎもせず、目を大きく見開いて聞いていた。

 高校生らは、他の人たちにも「なぜ辺野古に来ているのか」など、熱心に聞き取りをした。

 高校生らは、11時過ぎ、いったん引き上げて、浜のテントに向かったが、再びゲート前に戻ってきて、正午の第二回搬入に向けて座り込む人たちと機動隊の様子を、直にその目で見た。

 彼ら、彼女らはここから何を学び、持ち帰って、どんな考えを自分の中に構築するのだろうか!

 「米軍基地だから反対するのですか?」という高校生の質問に、文子さんが答えた言葉が印象的だった。「私は、米軍の火炎放射器に焼かれて一度は死んだ。しかし、米軍の野戦病院で治療を受けて生き返った。

 私が今も思うことは、もしあの戦争で日本が勝っていたら、私は死んでいただろう。日本軍は自分らが生き残るために、沖縄の住民を壕から追い出し、艦砲射撃の元にさらした。大けがをした私など、手当てもしてくれなかっただろう。軍隊は住民(国民)を守らない!それが軍隊の本質、沖縄戦の教訓。だから、戦争の道具である基地や軍隊は世界のどこにもあってはならない。米軍だけでなく、自衛隊基地にも反対する」と。

 

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