国、「翁長知事の作業停止指示」の効力を停止

「国が申し立てをし、同じ国が審査する」。こんな茶番劇がまかり通る日本という国。
自衛隊を「わが軍」と、明らかに憲法違反の発言を繰り返す総理大臣を
国会も国民も追及しきれないのだから、推して知るべしだ。

琉球新報 3月31日

琉球新報 3月31日

 

翁長知事の作業停止指示期限の昨日
政府が出してきた回答は、さらなる沖縄への差別的な強権発動だった。
管官房長官の口癖、「日本は法事国家だから…」が、聞いてあきれる。
その言葉、沖縄からそっくりそのまま熨斗つけてお返しする。

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一夜明けた今朝の辺野古ゲート前は
県民の反発を予想して、県警機動隊が、バス13台、指令車3台以上、小型車約10台で最大動員された。

ゲート前でいつものようにデモ行進、座り込みをしようとした市民を二か所に分断して
警察装甲車と100人以上の機動隊員で囲い込み、一時間以上も拘束した。

高齢者や女性たちが「水を飲みたい」「トイレに」と要求しても聞き入れず
囲い込みを抜け出そうとした男性の腕が機動隊員の胸にあたったとして
「公務執行妨害」の名目で、拘束・逮捕され、名護署に連行された。

逮捕された市民の釈放を求めて、およそ150人が名護署を包囲して抗議。

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午後3時すぎに、一旦ゲート前に戻り、改めて抗議行動を展開した。

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24時間体制のゲート前行動は
早朝組、日中組が帰った後、夜間組、泊まり込み組にバトンタッチする。

夕方からは、夜間組と泊まり込み組が、夜を徹して名護署での抗議行動が行われることになっている。

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どんなに厳しい状況にあっても、花をめでる心をもっていたい。花言葉は”いい知らせ”と、記されていた。

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毎日のように県内外から様々な差し入れが届く「ゲート前テント村」、今日は県内の農家から大量の島人参とだいこん、キャベツが届いた。みんなで分けていただいた。

2015年3月31日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ②

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慰霊祭で主催者として式辞をを述べた松本好勝村長は翌日29日、70歳の誕生日を迎えた。

”集団自決”の現場からかろうじて逃げ出した母親が、砲弾が雨嵐と降り注ぐ山中をさまよう中で産気づき、彼を産み落とした。

「70年の節目に村長を務めていることに因縁を感じる」と、新聞社のインタビューに答えている。

 

 

吉川嘉勝氏は、当時まだ6歳だった。「北山(にしやま)に集まれ!」という日本軍の命令に従い父母兄弟姉妹で雨の激しく降る山道を登った。北山には日本軍の本部壕があり、そこへ行けば友軍が守ってくれると誰もが思っていた。が、待っていたのは阿鼻叫喚の修羅場だった。集めれれた村人たちの間で、誰かが「天皇陛下ばんざい!」と叫んだのを合図に周辺あちこちで手りゅう弾がさく裂した。死に遅れてはならないと家族・親戚が一塊となった輪の中で、兄の一人が日本軍から渡されていた手りゅう弾の信管を抜き石でたたいた。しかし手りゅう弾は何度叩きつけても爆発しなかった。

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

そのとき吉川氏の母親が叫んだ。「死ぬのはいつでもできる。人間は生きられる間は生き抜くものだ。命どぅ宝やさ(命こそ宝だ)」。立ち上がって歩き出した一家を追って何人もの人たちが”玉砕場”を抜け出し、命を救われた。吉川氏の母親は、集落の祭祀を司る人として人々から尊敬されている神人(かみんちゅ)だった。

「訳もわからず、自ら命を絶つことに、神人の母は納得がいかなかったようだ」と、後に吉川氏は証言のなかで語っている。

2015年3月30日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ①

渡嘉敷島の戦争犠牲者を祀る慰霊碑・白珠之塔で70年目の慰霊祭が執り行われた。

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DVC00314.JPGDVC00321.JPGハーブ 周子 153

 

 

 

 

この日の渡嘉敷島・阿波連

この日の渡嘉敷島・阿波連

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我が愛する故郷渡嘉島。70年前、この美しい島で、なにが起こったのか!

<渡嘉敷村公式ホームページから>

物量に劣る日本軍の特攻部隊は、山の中に逃げこんだ。連日の空爆や、艦砲射撃でパニック状態におちいった住民は避難の場所を失い、島北端の北山(ニシヤマ)に追いつめられた。(※日本軍の命令でここに集められた

「米軍に捕まると、男は耳や鼻を削がれ目を疲れて殺される、女はレイプされ、股裂にきされて殺される」と信じ込まされ、3月28 日、日本軍から植え付けられた「捕虜になるのは非国民」という思い(※スパイ視され、処刑される日本軍への恐怖)から集団を組んで自決した。

手留弾(※前もって日本軍から配られていた)、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で親兄弟の首を絞めたり、首を吊ったり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていった。

「ありったけの地獄が出現した」と表現される沖縄戦。その地獄の一つが「集団自決」

ここで起こった悲惨な出来事は、戦争を知らない世代には想像すらできないであろう。しかし、実際に起こったことである。

白玉之塔には「集団自決」の犠牲者330名を含む戦没者594名が祀られている。当時の人口は1000人前後とみられていることから、実に村民の半数以上が戦争の犠牲になったということになる。私の祖父の名もここに刻まれている。

< ※は投稿者注>

 

 

 

 

 

 

2015年3月29日リンクURL