70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ②

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慰霊祭で主催者として式辞をを述べた松本好勝村長は翌日29日、70歳の誕生日を迎えた。

”集団自決”の現場からかろうじて逃げ出した母親が、砲弾が雨嵐と降り注ぐ山中をさまよう中で産気づき、彼を産み落とした。

「70年の節目に村長を務めていることに因縁を感じる」と、新聞社のインタビューに答えている。

 

 

吉川嘉勝氏は、当時まだ6歳だった。「北山(にしやま)に集まれ!」という日本軍の命令に従い父母兄弟姉妹で雨の激しく降る山道を登った。北山には日本軍の本部壕があり、そこへ行けば友軍が守ってくれると誰もが思っていた。が、待っていたのは阿鼻叫喚の修羅場だった。集めれれた村人たちの間で、誰かが「天皇陛下ばんざい!」と叫んだのを合図に周辺あちこちで手りゅう弾がさく裂した。死に遅れてはならないと家族・親戚が一塊となった輪の中で、兄の一人が日本軍から渡されていた手りゅう弾の信管を抜き石でたたいた。しかし手りゅう弾は何度叩きつけても爆発しなかった。

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

そのとき吉川氏の母親が叫んだ。「死ぬのはいつでもできる。人間は生きられる間は生き抜くものだ。命どぅ宝やさ(命こそ宝だ)」。立ち上がって歩き出した一家を追って何人もの人たちが”玉砕場”を抜け出し、命を救われた。吉川氏の母親は、集落の祭祀を司る人として人々から尊敬されている神人(かみんちゅ)だった。

「訳もわからず、自ら命を絶つことに、神人の母は納得がいかなかったようだ」と、後に吉川氏は証言のなかで語っている。

2015年3月30日リンクURL