大浦「津波襲来の碑 」 ~ チリ地震の津波に呑まれた辺野古②

 先月の12日、島袋文子さんが1960年に起こったチリ地震で、辺野古の集落が津波に襲われた話をしてくださったことは、このブログでも取り上げましたが、調べてくれた方がいて、大浦の集落に「津波襲来の碑」があるというので、去る2日、辺野古大行動の集会の後に、大浦集落まで足を延ばした。

 大浦の集落は、まさに新基地建設で埋め立てられようとしている大浦湾の扇の要に当たる位置にある。眼前に埋め立て工事が進む辺野古崎が見える。

碑は、集落の中央、公民館などがある広場に建っていた。

 

 チリ地震津波とは、1960年5月22日(現地時間)、チリ南部沖合で発生したマグニチュード9.5の地震。チリでは地震と津波で約2000人の死者が出た。津波は太平洋全域に波及し、各地に甚大な被害をもたらした。

 日本へは24日(日本時間)午後に第一波が太平洋岸各地に到着、三陸海岸では高さが5~6メートルに達した。日本ではチリ地震津波として知られ、死者・行方不明者142人、家屋全壊1500戸の被害が出た。

 沖縄でも、沖縄本島中北部、宮古島、石垣島に津波が襲来、被害は死者3名、家屋全半壊28、半壊109、羽化上浸水602、床下浸水813に及んでいる。

 辺野古集落では死者はでなかったが、28戸の浸水被害がでた。「朝6時ごろ、何か重たいものを引きずるような大きな音がしたので目が覚めて、雨でも降っているのかと思って戸を開けたら、大きな波が山のようになって見えた。当時はトイレは汲み取り式だったので、それが海水と一緒になってもうぐちゃぐちゃ。大変だった!

 政府は大きな地震は起きないというけど、あんな遠い南米の地震でもあれだけの津波が起こるんだから、そんなところに基地なんか造ったら大変なことになるよ」と、話していた文子さんのことばが生々しい。

 当時、私はまだ小学生だったが、「チリ津波」と言えば、「屋我地大橋が決壊した」ということだけが、記憶として残っている。

 大浦の津波襲来の碑の横には、沖縄戦の戦渦にも耐え、チリ津波にも耐えてなお威風堂々、キジムナーも住むという樹齢120年のかじゅまるの木がそびえる。

 

 ガジュマルの根元に、私たち世代には懐かしいモノがぶら下がっていた。戦後20年くらいまでは、沖縄中どこの集落や学校にもあったのではないだろうか。沖縄戦の遺物・米軍製爆弾の薬きょうを利用した釣鐘である。これで時を告げ、子どもたちへ集合の合図を送り、火事など緊急のときにはガンガン打ち鳴らして危険を知らせた。それこそチリ津波のときにもこの鐘の音が、村中に響き渡ったのではないかと想像する。

 これが、今も使用されているのかどうかは、聞きそびれてしまった。

 

 集落の住民に、直接お話を伺うことはできませんでしたが、 「津波襲来来の碑」といい、可愛らしいシーサーの避難所表示と言い、大浦集落ではチリ地震津波波の教訓がいまも、しっかり生かされているように感じた。

 

 

2019年11月8日リンクURL

首里城炎上 ~ 復元不可能な貴重な展示品も焼失

 あまりの出来事に言葉も出ない。この三次元世界の苦しみは、それを克服することで、魂が何かを学ぶために起こるという。受難うち続く沖縄、この受難から何を学べというのだろうか。

  沖縄戦で焼失したあと、20数年かけてここまで復元した首里城だった。新たな復元は30年以上かかるという。

 しかし、建物は再建・復元できても、復元できないものもある。

 

 

<11月2日 琉球新報>

「泥棒は、担げるだけしかもっていかないが、火事はすべてごっそり持っていく」と、祖母が口を酸っぱく言っていた言葉を、実感を持って思い出す。

 

2019年11月1日リンクURL

総重量40t 世界一の「那覇大綱挽き」 ~ 今年は引き分け

 全長186m、総重量40トン220kg、綱直径1m58cm、手綱数236本、挽き手1万5000人、参加人員27万5000人、ギネスも認めた世界一の綱引き「那覇大綱挽」が、今日(13日)那覇市の久茂地交差点中心に国道58号線を全面交通止めにして行われました。

 午後4時から綱を引くと聞いていたので、3時半ごろに会場へ向かいましたが、あまりの人の多さに、綱に近づくこともできません。林立する旗頭だけは見え、大綱引きの雰囲気を伝えてくれます。

 40tもの大綱なんて想像もつかないでしょうから、「那覇大綱挽」のホームページから写真を拝借しました。

 那覇大綱挽の歴史は、琉球王朝時代にさかのぼり、「琉球」が国際交流都市として繁栄するに伴い、国王襲位の慶弔祝賀行事としてひかれるなど、琉球王国独特の大綱挽に成長しました。1935年(昭和10年)まで毎年挽かれてきましたが、沖縄戦で中断され、現在の「那覇大綱挽」は、1971年(昭和46年)那覇市制施行50周年を記念して復活したものです。

 1m58cmもの大綱は直接抱きかかえて引くことはできないので、大綱のわき腹から、ムカデの足のように突き出した枝綱を引きます。

 1995年(平成7年)ギネス認定、さらに97年その記録を更新したのが冒頭に紹介した数字です。誰でも参加することができ、国籍や性別年齢を超えた一大イベントでテレビ中継されるほどの大行事に発展しています。


 黒装束のむむぬちはんたー(股引半套)を身にまとった各地区の青年たちが舞う旗頭(はたがしら)が、この綱挽を応援する村の旗印です。

昔は、この旗頭振りのリーダーになることが青年たちのあこがれの的だったそうです。

 綱引きが始まる前に行われるセレモニーの一つ「シタク」。王朝時代の武将に扮したシタクが東西それぞれから登場(写真は東の武将・鬼大城、ちなみに西は安麻和利)、”我陣営に勝利あり”と、張り合い引手を鼓舞します。

 4時40分ごろ始まった綱引きは、5分足らずで決着、私は東側にいて勝どきが上がったので、東が勝ったと思ったのですが(周辺の人たちはみんなそう思った)、後でわかったことは、綱引き中に綱が切れ、裁定の結果引き分けということになったということです。途中で綱が切れるというのはこれまでになく、初めての出来事だそうです。

 戦前の話ですが夕方に始まった綱引きは、勝負が決まらず、明け方まで引き合ったということも度々あったそうです。

 <勝どきを上げる東側の人たち>

2019年10月13日リンクURL