脱原発ウォーク

 

 

 9月24日、プラカード持って国際通りを歩きました。

  

ウォークの先頭を切ったのは

子連れの若いお母さんたち。

放射能から逃れて、福島や、埼玉、東京から避難してきた家族です。

 

 

「パパに会いた~い !」

「おばあちゃんに会いた~い !」

「おじいちゃんに会いた~い!」

「家族で一緒に暮らしたいよ~!」

 

                                                                                             

  

 

「故郷に帰りた~い!」

「でも、放射能があるから帰れな~い!」 

「二重世帯の暮らしは苦しいよ~!」

 

 

 

 

   そんな切実な声が

夕暮れのメインストリートに響きました。

 

 「原発いらな~い!」

「基地もいらな~い!」

「福島を返して!」

「東北を返して!」

「沖縄を返して!」

「ニッポンを返して!」

 

 

 少し寂しかったのは

脱原発ウォークに参加している人々よりも

歩道を闊歩している観光客の数のほうが

多かったことです。

                                                                                                                                                                                                                                                     

2011年9月29日リンクURL

沖縄の戦後は まだ終わらない

9月17日の琉球新報の記事です。

 新聞切り抜きを寄せ集めたのではありません。

9月17日の1ページです。

その一週間前の10日には、こんな記事もありました。 

 

  

「首里」は沖縄戦の激戦地だった…

記事は、一ヶ月前にも同じ場所で
不発弾が見つかり

 処理したことを報じています。

 

 

 沖縄戦のとき激戦地だった沖縄南部の糸満市で,

昨年、国道工事現場の地中からロケット弾や手りゅう弾、迫撃砲弾など902発が一度に発見されたこともありました。

 

  また、この地域では、2年前の1月、市道での水道工事中に,

 沖縄戦時下の米国製250キロ爆弾が爆発。

重機を操縦していた男性が重傷を負い、

付近の民家や老健施設などに大きな被害を出した記憶も、まだ生々しく残っています。

  

「鉄の暴風」と称された沖縄戦。

有り余る物資にものを言わせて、米軍は

この小さな島に20万トンもの爆弾の雨を降らせました。

それは平均すると一坪に一トンの爆弾が落ちたことになるといいます。 

だから沖縄の地面の下は、今も不発弾だらけなのです。

 

 県の統計によると2009年は、年間124件の不発弾の届け出があったそうです。

実に三日に一件。もう日常茶飯事といっても過言ではありません。

 

不発弾が見つかると周辺の住民を避難させ、自衛隊が処理することになっいますが、

あまりにも頻繁に不発弾処理の避難騒ぎがあるので、

県民は慣れっこになり、感覚がマヒしてしまった感もあります。

 

しかし今月はじめこんなことが起こって、

改めて、不発弾処理の理不尽さが浮き彫りになっりました。

 

 

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 現在、不発弾処理の費用は
全額国の負担。

 しかし、避難に伴う経費は

避難すする住民側が負って来ました 

 

 

今回、病院側は350人の入院患者をバス3台で避難させる措置をとりましたが、

重篤な患者については移動のリスクが高く、

避難は困難として、患者や付き添いの医師や看護師など約300人を施設内に残したまま

行われることになりました。

 

  ほとんどの不発弾は、一旦自衛隊基地などに運ばれ処理されますが、

この不発弾は、信管がついていて移動すると爆発の危険があるため、

9月4日、発見されたその病院の敷地内で処理されました。

 

 このような事態に対して、国も県も市町村も

公の機関は何の指針もなく、避難する側任せと、新聞は報じています。

 

結果的に、事故などは起こらなかったから事なきを得ましたが、

万が一の場合、いったい誰がどのように責任をとるのでしょうか?

 

「国策で行われた戦争の負の遺産は、

国の責任で対処すべきだ」との県民の声が、改めてわき上がっています。

 

現在のペースで処理を行うとして

沖縄からすべての不発弾がなくなるには

あと50~60年かかると言われていいます。

沖縄の戦後はいつ終わるのでしょうか。

 

 

2011年9月22日リンクURL

沖縄の新聞から~米軍、沖縄で枯れ葉剤使用(ベトナム戦争時)~

今朝の沖縄タイムスの記事です。

北部には、県民の水がめ(ダム)あるのに!!!

記事より

「米軍がベトナム戦争での実践を前に、

1960年から約2年間にわたり、国頭村と東村の米軍北部訓練場内と周辺一帯で

猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤「オレンジ剤」の試験散布をしていたことが分かった。

当時の枯れ葉剤散布作戦の立案に関わった米陸軍の元高官が、

沖縄タイムスの取材に対して明らかにした」

 

 つまり、米軍はベトナムでの実践を前に、沖縄県民をモルモットにして

枯れ葉剤の効果を試していた、ということです。

 

 ベトナム戦争では、枯れ葉剤の影響で

たくさんの奇形児が生まれたことはよく知られています。

その典型的な例が結合双生児「ベトちゃん・ドクちゃん」です。

ベトナムでは、第二、第三のベトちゃん・ドクちゃんが

いまも生まれ続けています。

 

それだけではありません。

当時ベトナム戦争に従軍した米軍兵士が、退役後

たくさんガンなどの病気で命を落としています。

 

 

その枯れ葉剤が沖縄でも散布されていたことは

以前から言われていましたが、

公式な記録がないため、米軍も日本政府もずっと否定し続けていました。

 

 しかし、枯れ葉を詰めたドラム缶を

捨て場に困って、北谷町の基地に埋めたという元米兵の証言が

先月(8月14日)の新聞で報じられ、

沖縄県民は、改めて衝撃を受けました。 

 
 
 
 

 

8月14日の記事

 

 これが、米軍・日米安保の実態です。

人間の命を損なうことを何とも思わない。

しかし、それは当然と言えば当然のこと。

戦争とは、殺し殺されることだから…。

 

 戦争に正義などないことを

武器で、平和など創れないことを

私たちは、改めて認識しなければなりません。

 

  

 

 

 戦後66年間も、外国の軍隊が駐留し続ける沖縄では

日常茶飯事でこのような理不尽なできごとが起こっています。

しかし、沖縄のマスコミ以外の中央メディアは、

ほとんど報じることはありません。

 

 ささやかなブログではありますが、

地元の新聞記事を通して、県外の皆さんに

沖縄の出来事を伝えていけたらと思っています。

 

 

2011年9月6日リンクURL