今朝の新聞は、日米の間で普天間基地の辺野古移設が決められたSACO合意から20年の特集記事が占めていた。
辺野古における新基地を許さない抵抗の座り込みは20年ということになる。
一口に20年というけれど、生半可な歳月ではない。始まりは地元のおじぃ、おばぁたちが、「命の海を埋め立てさせない」と、浜に闘争小屋を建てて座り込んだことから、島ぐるみ、県外、世界へと広がっていった。
この間に、どれだけの人たちが、想いを残しながら、亡くなっていったことか。つい先日も、浜のテントの象徴的存在だった嘉陽のおじぃが天国に召されたばかりだ。残された私たちは、その遺志を受け継いで、何があってもあきらめず、今日もゲート前に座り込み、米軍車両の前に立ちはだかる。
29日に警察の家宅捜索が入り、4人が新たに拘束される大弾圧に晒されたゲート前のテント、それでもへこたれず、健在です。
テント前の花壇に咲くケイトウの花も、元気に風に揺れていた。さくらのように見えるのは、高速道路沿いのトックリ木綿の花。
辺野古の帰路、金武のキャンプハンセンで訓練中のオスプレイに遭遇した。
昨日(1日)は、那覇の上空を、午後3時ごろから夜10時過ぎまで、途切れることなく何度も飛び回っていたオスプレイ。
水を運んでいるようだ。
山で煙が上がっている。
山火事を消すために、近くのかんなダム(と思われる)から水を汲み、運んでいるようだ。山肌はかなりの面積が黒く焦げ、なお煙をあげて燃え続けている。
ここには多くの疑問点がある。実弾訓練中に偶然山火事が起こったのか、それとも、オスプレイの消化訓練のために、意図的に山火事を起こしたのか?
県民の水がめであるダムから、山火事消化のため、ヘリで水をくむことは許されているのか?もし、ダムの近辺で墜落でもしたら、県民の命の水が汚染され、大変なことになる。