石川真央写真展 大琉球写真絵巻 partⅣ

3度目のガンの手術を抱えながら大琉球写真絵巻四部作を完成させ、写真展を開いた石川真央さん。「写真の神様」から与えられた命をフル回転させている。

開催期間は9.5~9.10で、すでに終わってしまったが、県外の共通の友人の中には、頑張っている真央さんの様子を知りたいという方もいらっしゃると思うので、報告のつもりでアップしておきたい。

 

開催期間中、毎日一回入院中の病院を抜け出してきて、一時間以上かけて自ら解説。連日たくさんの人たちが駆け付けた。

パートⅣとなる今回の大琉球絵巻。第四部の大きなポイントの一つはは、辺野古新基地をめぐってトランプ大統領と安倍総理の関係。「お手」と差し出したトランプ大統領の手のひらに、ポチよろしく「お手」をする安倍総理の図。しっかり首輪もはめられている。

歯に衣着せぬ「真央節」健在!権力の側にだけでなく、味方にもしっかり物申すのが「真央流」である。集まった人たちの間から何度も共感の拍手が起こっていた。

パートⅣのポイントもう一つは、昨年起こった元米兵による女性強姦殺人遺体遺棄事件。

元金武町長で現在翁長県政で政策調整官をつとめる吉田勝広さんは、地元金武町で起こった事件でもあり、毎週一回献花に訪れる。「政治家はあまり信用しないけど、毎週欠かさず来ているので、この人は信頼できると思ったので、被写体になってもらった」とのこと。

▼上の写真の解説

あなたの町や村でも、石川真央大琉球写真絵巻の写真展を開きませんか?

2017年9月13日リンクURL

終わらない戦後②~不発弾の上に眠れますか?

<沖縄戦の不発弾、いまだ地下に2100㌧>
沖縄の新聞には、毎週末と言っていいほど不発弾処理の予告記事が掲載される。住宅建設現場などで発見された不発弾を処理するため避難を呼びかけるもの。住民生活への影響を最小限にするため、緊急でない限り休日に行われるが、それでも近くに病院があれば、入院患者も非難しなければならないし、工場や店舗は休業しなければならない。もちろん付近の道路は交通止めとなる。だがそれは、多くの県民にとって特別驚くことではない。不発弾処理は日常茶飯事なのだ。

この原稿を書いていたら、私のいる事務所の近くで、不発弾処理があるとのお知らせが、郵便受けに投げ込まれていた。何というタイミング!

 

<学び舎は不発弾の上に>
2012年4月、県立首里高校グラウンドの校舎改築工事現場で見つかった米国製250キロ爆弾(直径36センチ、長さ120センチ)の処理が、陸上自衛隊によって行われた。腐食が激しく、信管を抜き取ることが難しかったため運搬できず、現場で爆破処理が行われた。これにより半径288メートルの約2350人(約845世帯、95事業所)が避難を余儀なくされ、区域内の大型ホテルは前夜から一切宿泊客を取らず、処理作業が終わるまで休業となった。
首里高校の工事現場からは、合計16個の不発弾が発見されており、その都度同様な不発弾処理が行われた。恐ろしいのは、首里高校の生徒らは、戦後70年近くも不発弾の上で学び、体育の授業や運動会で飛んだり跳ねたりしていたことになる。よくぞ爆発事故が起こらなかったものだ。
それにしても、なぜ沖縄にこれほどまでに多くの不発弾があるのだろうか。

<「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦>

沖縄戦における米軍の艦砲射撃

沖縄戦は「鉄の暴風」と形容される。有り余る物量に任せて、米軍はこの小さな島に雨あられと爆弾を降らせた。その量たるや実に20万㌧と言われても、軍事専門家でもない私たちには、数字の大きさはわかっても実感として捉えることができない。
佐喜眞美術館の佐喜眞道夫館長は「沖縄戦の図」を前に、沖縄に降り注いだ爆弾について、こう説明した。「米軍が上陸した読谷あたりから日本軍の司令部があった首里城までの間に打ち込まれた砲弾は、平均すると1坪に1㌧にもなりました。沖縄戦で使われた250㌔爆弾というのは、一発爆発すると50㍍プールくらいの穴が開き、半径700㍍の木造住宅は全部吹っ飛んでしまうほどの威力があります。1坪1㌧ということは、1坪あたりに250キロ爆弾が4発撃ち込まれたことになります。

展示作品の解説をする佐喜眞道夫館長(佐喜眞美術館にて)

『沖縄戦の図』が展示されている部屋の隣の展示場は44坪ですから、あの空間に176発の250㌔爆弾が落ちたことになります。これはほんとに信じ難い状態です。

沖縄戦全体を通じて使われた砲弾の総重量は20万㌧と言われています。20万㌧というのは10㌧トラックで2万台分です。アメリカ軍はこれだけの砲弾をこの小さな島に打ち込んだのです。ですから沖縄戦の戦場では、五体満足な死体はありません。全部吹き飛んでぐちゃぐちゃ。誰が誰やら判別できなかったと聞いています」。
このように沖縄全島に打ち込まれた砲弾は、そのうち約1万㌧が不発弾となって地下に埋もれたと考えられている。しかもそれは米軍だけの数字で、日本軍が使った砲弾は加味されていない。

<絶えない不発弾事故>
幸い首里高校のグラウンドでは爆発事故は起こらなかったが、1972年の本土復帰前に発行された琉球警察統計書によると、戦後不発弾事故で710人が死亡、1281人が負傷している。
復帰後も1974年3月に、那覇市小禄の幼稚園で不発弾が爆発し、園児や作業員4人が死亡、34人が重軽傷を負う事故が起きた。幼稚園の外壁沿いで道路工事があり、重機が地下に埋まっていた不発弾に触れ起こった事故だった。

「沖縄不発弾処理対策協議会」の資料より

この事故をきっかけに不発弾に対する認識が高まり、道路工事や建築現場では、事前に磁気探査が行われるようになった。しかし、公共工事は公費で賄われるが、民間工事は自己負担となるため十分対応ができるとは限らず、その後も人身に関わる不発弾事故は何度も起こった。
戦争の結果である不発弾は、国の責任で対処すべきだと、沖縄側からの長年の強い要望にもかかわらず、やっと国の磁気探査支援事業がスタートしたのは2012年度、わずか5年前である。

<不発弾処理の実績>
「沖縄不発弾処理対策協議会」の資料より

 

<年間900件、ゼロになるのは70年後?>

ちなみに、県への不発弾の届け出は、昨年16年度1年間で651件だった。過去多い年は900件近くもある。一度に4000発もの不発弾が見つかったこともある。年間の処理量は平均30㌧で、まだ2000㌧余の不発弾が残っていると推測され、全部処理されゼロになるのは70年後という計算になる。
発見される不発弾の99%が住宅などの民間工事であることを考えると、県民は日々生命・財産を脅かされながら不発弾の上で暮らしていると言っても過言ではない。 県議会では不発弾に対する国の責任を明確にするとともに、早期処理を促すため、来る9月定例議会で「不発弾等の根絶を目指す条例」を制定する方針。ここにも「いまだ終わらない沖縄の戦後」の実態がある。

2017年9月10日リンクURL

終わらない戦後①~沖縄戦抜きの戦争被害調査 

6月23日の沖縄「慰霊の日」にはじまり、8月6日、9日の「広島・長崎の原爆の日」、8月15日の「終戦記念日」と、この国が犯した忌まわしい戦争の記憶がよみがえる日々が、夏と共にやってきて夏の終わりと共に去っていった。9月に入って少し呼吸が楽になり、安ど感を覚える。

しかし、それは私が直接の戦争体験を持たない戦後世代だからであって、戦争体験者にとってはそうではない。72年前に終わったはずの戦争の傷跡が、特にここ沖縄にはいつ癒えるのかもわからないまま、まだ生々しい傷口を開けて横たわり、今も人々を苦しめる。「終わらない戦後」その実態の一端でもお伝えできたらと思う。

 <沖縄戦抜きの戦争被害調査って あり?~沖縄は乗せないニッポン丸>
沖縄戦の戦没者は22万人余と言われている。そのうち12万人が一般住民を含む沖縄県出身者である。実に県民の4人に1人以上が犠牲になったということになる。
政府は、戦後すぐの1947年と1977~2009年度の2度にわたって、第二次世界大戦による戦争被害調査を、全国的に行った。しかし、その調査報告書に、なぜか沖縄県だけが抜け落ちていた。

<沖縄県議会議員 仲村未央氏(辺野古ゲート前にて)>

このことを知った沖縄九条連共同代表でもある県議会議員・仲村未央氏が、沖縄県や県選出国会議員を通して、調査を担当した総務省を問い質した。これに対して政府は「行政文書が残っておらず、沖縄が対象外とされた理由は定かではない」との答弁書を閣議決定(2015年9月)、質問した照屋寛徳衆議院議員に回答した。ならば、今後再調査あるいは沖縄県などの調査資料を反映させるつもりはあるのかと問えば、「そんな予定はない」と。

 <地上戦は対象外?>
1977年から2009年に、国が日本戦災遺族会に委託して行った「全国戦災史実被害調査」は、年度ごとにテーマが設けられ、都市の空襲の状況、学童疎開の記録、など幅広く調査報告されている。しかし、ここにも沖縄戦の記録は一切ない。那覇が壊滅した10・10空襲についても、学童疎開船が米軍の魚雷で沈没、814名の学童・引率教師を含む1462名が犠牲になった対馬丸の記録も。
調査を担当した総務省の係官は、考えられる原因として「空襲についての調査だったので、地上戦があった沖縄は対象外になったのでは?」と詭弁を弄しているという。

「魂魄の塔」は、戦後最も早く、野山に散乱する遺骨を拾い集め、住民の手によって建立された慰霊碑。全都道府県の慰霊碑が立ち並ぶ摩文仁に、唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえていうならば、この「魂魄の塔」が 沖縄県の碑といえるかもしれない。家族や身近な人が、戦場のどこで亡くなったかわからない遺族は、ここに来て手を合わせる。慰霊の日には終日線香の煙と祈りの声が絶えることがない。

仲村未央県議は、「1947年の調査で沖縄が漏れたのは、島全体が灰燼に帰した戦後すぐの混乱の中、米軍支配下で日本の行政権が及ばず調査が困難だったと、理解できないこともない。しかし、2009年まで長期にわたって行われた調査でもなお、なぜ沖縄が対象にならなかったのか。しかも、今後沖縄戦の被害を追加記載しようと思えば、新たに調査しなくても、沖縄戦に関する調査研究は沖縄県などにいくらでも蓄積がある。資料は揃っている。やる気がないだけだ」と、政府を追及している。

 <幼稚で姑息な国策>
全国調査で沖縄県だけが抜け落ちていることを、世界一優秀といわれる日本の官僚が気づかないはずはない。意図的に外したとしか考えられない。だとしたら、そんなことにどんな意味があるというのか。まったく理解に苦しむ。単なる沖縄いじめだとしたら、あまりにも幼稚すぎる。
うがった見方をすれば、戦争被害を国の調査として明らかにすれば、補償の問題が生じかねない。兵士よりも一般住民の戦死者が多かった沖縄戦。被害が甚大ならば、必然的に補償も莫大になるはずだ。このまま知らんふりを通せば、あと20年も待たず沖縄戦の体験者はほとんどいなくなると計算しているのかもしれない。なんと姑息で悲しい国策だろうか。
仲村未央氏はさらに「軍隊の醜さ、弱者に向かう暴力の本質が沖縄戦に集約され表面化した事実を、政府は絶対に認めないはずです。次なる戦争の準備に支障となる歴史を”なかったこと”にするために。しかし、国が沖縄戦の被害を記録として残さない限り、戦後100年を迎えるころには被害の実態もなかったことになる」と危惧し、今後も国の対応を強く求めていくとしている。
72年がたっても、沖縄の戦後は終わらない、終わらせてくれない実態がここにある。

 <平和な未来は 子どもたちの権利>

世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」。沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設された。毎年数十名の追加刻銘があり、現在24万1千人余が刻まれている。私の父方の祖父と母方の祖父、叔母の名もここに記されている。
<戦後72年がたっても悲しみは癒えない。慰霊の日の「平和の礎」>

辺野古では新基地建設に、県民が必死の抵抗を続けている。地獄の沖縄戦を生き抜きぬいてきた体験者が一人でも生きている限り、県民の抵抗が止むことはないであろう。
慰霊の日には、毎年平和をテーマに県が募集した児童生徒の作文が朗読される。平和を信じまっすぐ未来を見つめる子どもたちのピュアな魂の声に、いつも心が洗われる。この子らの未来に戦争に繋がる基地は残したくない。
安心、安全な暮らし、いのち輝く豊かな自然、文化薫るふるさとを子や孫の世代に引き渡すのは私たち大人の責任であり、それを受け継ぐのは、次代を担う子どもたちの権利なのだ。

2017年9月9日リンクURL