終わらない戦後①~沖縄戦抜きの戦争被害調査 

6月23日の沖縄「慰霊の日」にはじまり、8月6日、9日の「広島・長崎の原爆の日」、8月15日の「終戦記念日」と、この国が犯した忌まわしい戦争の記憶がよみがえる日々が、夏と共にやってきて夏の終わりと共に去っていった。9月に入って少し呼吸が楽になり、安ど感を覚える。

しかし、それは私が直接の戦争体験を持たない戦後世代だからであって、戦争体験者にとってはそうではない。72年前に終わったはずの戦争の傷跡が、特にここ沖縄にはいつ癒えるのかもわからないまま、まだ生々しい傷口を開けて横たわり、今も人々を苦しめる。「終わらない戦後」その実態の一端でもお伝えできたらと思う。

 <沖縄戦抜きの戦争被害調査って あり?~沖縄は乗せないニッポン丸>
沖縄戦の戦没者は22万人余と言われている。そのうち12万人が一般住民を含む沖縄県出身者である。実に県民の4人に1人以上が犠牲になったということになる。
政府は、戦後すぐの1947年と1977~2009年度の2度にわたって、第二次世界大戦による戦争被害調査を、全国的に行った。しかし、その調査報告書に、なぜか沖縄県だけが抜け落ちていた。

<沖縄県議会議員 仲村未央氏(辺野古ゲート前にて)>

このことを知った沖縄九条連共同代表でもある県議会議員・仲村未央氏が、沖縄県や県選出国会議員を通して、調査を担当した総務省を問い質した。これに対して政府は「行政文書が残っておらず、沖縄が対象外とされた理由は定かではない」との答弁書を閣議決定(2015年9月)、質問した照屋寛徳衆議院議員に回答した。ならば、今後再調査あるいは沖縄県などの調査資料を反映させるつもりはあるのかと問えば、「そんな予定はない」と。

 <地上戦は対象外?>
1977年から2009年に、国が日本戦災遺族会に委託して行った「全国戦災史実被害調査」は、年度ごとにテーマが設けられ、都市の空襲の状況、学童疎開の記録、など幅広く調査報告されている。しかし、ここにも沖縄戦の記録は一切ない。那覇が壊滅した10・10空襲についても、学童疎開船が米軍の魚雷で沈没、814名の学童・引率教師を含む1462名が犠牲になった対馬丸の記録も。
調査を担当した総務省の係官は、考えられる原因として「空襲についての調査だったので、地上戦があった沖縄は対象外になったのでは?」と詭弁を弄しているという。

「魂魄の塔」は、戦後最も早く、野山に散乱する遺骨を拾い集め、住民の手によって建立された慰霊碑。全都道府県の慰霊碑が立ち並ぶ摩文仁に、唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえていうならば、この「魂魄の塔」が 沖縄県の碑といえるかもしれない。家族や身近な人が、戦場のどこで亡くなったかわからない遺族は、ここに来て手を合わせる。慰霊の日には終日線香の煙と祈りの声が絶えることがない。

仲村未央県議は、「1947年の調査で沖縄が漏れたのは、島全体が灰燼に帰した戦後すぐの混乱の中、米軍支配下で日本の行政権が及ばず調査が困難だったと、理解できないこともない。しかし、2009年まで長期にわたって行われた調査でもなお、なぜ沖縄が対象にならなかったのか。しかも、今後沖縄戦の被害を追加記載しようと思えば、新たに調査しなくても、沖縄戦に関する調査研究は沖縄県などにいくらでも蓄積がある。資料は揃っている。やる気がないだけだ」と、政府を追及している。

 <幼稚で姑息な国策>
全国調査で沖縄県だけが抜け落ちていることを、世界一優秀といわれる日本の官僚が気づかないはずはない。意図的に外したとしか考えられない。だとしたら、そんなことにどんな意味があるというのか。まったく理解に苦しむ。単なる沖縄いじめだとしたら、あまりにも幼稚すぎる。
うがった見方をすれば、戦争被害を国の調査として明らかにすれば、補償の問題が生じかねない。兵士よりも一般住民の戦死者が多かった沖縄戦。被害が甚大ならば、必然的に補償も莫大になるはずだ。このまま知らんふりを通せば、あと20年も待たず沖縄戦の体験者はほとんどいなくなると計算しているのかもしれない。なんと姑息で悲しい国策だろうか。
仲村未央氏はさらに「軍隊の醜さ、弱者に向かう暴力の本質が沖縄戦に集約され表面化した事実を、政府は絶対に認めないはずです。次なる戦争の準備に支障となる歴史を”なかったこと”にするために。しかし、国が沖縄戦の被害を記録として残さない限り、戦後100年を迎えるころには被害の実態もなかったことになる」と危惧し、今後も国の対応を強く求めていくとしている。
72年がたっても、沖縄の戦後は終わらない、終わらせてくれない実態がここにある。

 <平和な未来は 子どもたちの権利>

世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」。沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設された。毎年数十名の追加刻銘があり、現在24万1千人余が刻まれている。私の父方の祖父と母方の祖父、叔母の名もここに記されている。
<戦後72年がたっても悲しみは癒えない。慰霊の日の「平和の礎」>

辺野古では新基地建設に、県民が必死の抵抗を続けている。地獄の沖縄戦を生き抜きぬいてきた体験者が一人でも生きている限り、県民の抵抗が止むことはないであろう。
慰霊の日には、毎年平和をテーマに県が募集した児童生徒の作文が朗読される。平和を信じまっすぐ未来を見つめる子どもたちのピュアな魂の声に、いつも心が洗われる。この子らの未来に戦争に繋がる基地は残したくない。
安心、安全な暮らし、いのち輝く豊かな自然、文化薫るふるさとを子や孫の世代に引き渡すのは私たち大人の責任であり、それを受け継ぐのは、次代を担う子どもたちの権利なのだ。

2017年9月9日リンクURL