核兵器による壊滅の危機に晒された沖縄②~核は本当に撤去されたのか?

<毒ガス移送、レッドハット作戦>
実は、復帰前の沖縄には大量の毒ガスも貯蔵されていた。1969年7月、知花弾薬庫内で致死性のVXガス放出事故が起き、アメリカ軍人ら24人が病院に収容されたことを米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。これによって、米軍は沖縄に毒ガス兵器が存在する事実を認めざるをえなかった。
ベトナムで使われた致死性のVXガスやサリン、マスタードガス、オレンジ剤(枯葉剤)など1万3千トン余が知花弾薬庫に貯蔵されていたのだ。B52墜落に続く毒ガス貯蔵の発覚に県民は不安と恐怖に包まれ、怒りの声が広がった。立法院議会での撤去決議、一万人規模の県民大会などを受けて米軍は毒ガスを米領のジョンストン島へ移送すると発表した。

1971年の1月と7月の2次にわたって行われた毒ガスの移送はレッドハット作戦と呼ばれ、弾薬庫から米軍港までの移送ルート約13kmの行程を、延べ1300台以上のトレーラーで運ばれた。沿道の住民5,000人が避難し、小中高校80校余(児童生徒数7万5千人)が休校となった。(第1次輸送は、マスコミ向けのパフォーマンスだったのではないかという見方もある。私も放送の中継班としてその場に立ち会った一人である)。

第2次移送では、住民生活への影響を少なくするという理由から、できるだけ市街地を通らないルートで、住民の避難もなく行われたが、56日間を要する大規模作戦となった。
しかし、これで沖縄から毒ガスが完全に撤去されたのか、私たちに確認する術はない。

<核兵器は、本当に撤去されたのか?>

毒ガスの移送にしてこの騒ぎである。ましてや、1万3千発の核弾頭を、沖縄からいつどのように運び出したのか、いまのところ撤去した記録もその痕跡も見つかっていない。
日本政府は「事前協議がないので、核はない」といい、アメリカ政府は「沖縄の核の有無については言及しない」と言っている。

佐藤内閣当時の外務大臣・小坂善太郎とラスク米国務長官とのやりとり。小坂:「沖縄にメースなどの兵器を持ち込むとき、事前に発表しないで」ラスク:「手続き上何らかの発表はしなければならない」 小坂:「事後ならいい」。オスプレイ配備のときと全く同じ構図、いまに始まったことではない。「核持ち込みの事前協議」のまやかしが透けて見える。

この番組の放送後、平和運動などに取り組む六つの市民団体が「核兵器から命を守る沖縄県民共闘会議」を設立、9月26日、沖縄県に対し、米軍基地内の核の有無を調査するよう陳情した。
陳情を受けて沖縄県基地対策室は、「核と沖縄を巡る新事実が出たことを受け、最新の事実関係を確認する必要がある」として、外務省沖縄事務所宛に質問状を送った。
しかし、醜い権力闘争(選挙)に明け暮れる永田町に、沖縄の声は届くのか?

核兵器が隠されていた弾薬庫の一つ“辺野古弾薬庫”の入り口キャンプ・シュワブ第2ゲート。毎日ここから「火薬」のマークをつけたトラックが、何の規制もなく県道へと出入りする。今もここに核兵器があるとの噂が絶えない。

NHKスペシャル「沖縄と核」は、嘉手納弾薬庫地域の映像をバックにこんなナレーションで番組を締めくくった。「弾薬庫は、今も当時と変わらない規模で維持されている…」。そのコメントは「いまもここに核がある」と言っているように、私には聞こえた。

<嘉手納弾薬庫地区> 読谷村、沖縄市、嘉手納町にまたがり、総面積約27.2平方キロメートルに及ぶ広大な敷地面積。地下構造になっているため、外見的には静かな森に見にしか見えない。

2017年10月26日リンクURL

核兵器による壊滅の危機に晒された沖縄①

<NHKスペシャル「沖縄と核」に衝撃>

去る9月10日に放送されたNHKスペシャル「沖縄と核」が波紋を広げている。1950年代、沖縄が世界一の核兵器集積地だったというスクープドキュメントである。その数1300発、いまアメリカとロシアが所有する五分の一の量に相当する核兵器が、沖縄に集中していた。それだけでなく、事故による誤発射やキューバ危機に伴う核戦争の勃発で、沖縄が壊滅する危機が何度もあったという衝撃的な内容だ。

<嘉手納弾薬庫地区> 知花弾薬庫は、1972年の沖縄返還に伴い、嘉手納、波平、読谷、東恩納などいくつかの弾薬庫や関連施設が統合され、現在の「嘉手納弾薬庫地区」となった。読谷村、沖縄市、嘉手納町3市町村にまたがり、総面積約27.2平方キロメートルに及ぶ。(「ウィキペディア」より抜粋)地下構造になっているため、外見的には広大で静かな森に見にしか見えない。

 

<なぜ 沖縄に核兵器が集中?>
当時はまだICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など、長距離核攻撃を行う技術が開発されていなかったため、アメリカ軍は核兵器を前線基地に配備する必要があった。それには中国、ソ連、朝鮮半島に近い日本の米軍基地が最適とされ、沖縄だけでなく「本土」にも配備する計画だった。しかし、1954年にビキニ環礁で第五福竜丸など日本の漁船が水爆実験の死の灰を浴びる事件が起き、全国で反核運動が高揚したことから「本土」への配備計画は見送られた。その結果、当時アメリカの統治下にあった沖縄に集中することとなった、と番組は強調している。

<沖縄消滅の危機>
番組は元アメリカ軍兵士の証言をもとに、隠され続けてきた衝撃の事実を次々に明らかにした。
1959年、那覇基地(現在の那覇空港)に配備されていたナイキ・ハーキュリーズ(核ミサイル)一発が、整備中に暴発して発射され、兵士1人が死亡する事故が起きた。核弾頭を装着したミサイルは、那覇沖の海中に落下、核弾頭は回収されたが、事故については厳重なかん口令が敷かれ、隠され続けた。「もし爆発していたら那覇は壊滅しただろう」と、元兵士は恐怖の表情で語った。
また、嘉手納弾薬庫で核兵器の整備を担当していた別の兵士は、1962年キューバ危機の際、核の発射スイッチはすべて発射準備完了を示す「HOT」となり、誰もが核戦争が始まると思った、という。「沖縄は消滅する。もう家族には会えないと覚悟した」と、いまも残る核ミサイル発射台の前で証言した。

<”あわや核爆発”B52墜落事故>

B52戦略爆撃機。冷戦時代における米軍の主力戦闘爆撃機(核兵器も搭載可能)。“黒い殺人鬼”と呼ばれた。(「ウィキペディア」より抜粋)
1965年7月、沖縄から初めてB52(30機)がベトナムへ向け発進した。米軍は、沖縄は「発進基地」ではなく「補給基地」であることを強調していたが、これで沖縄の「出撃基地」としての性格が大きくクローズアップされた。

番組を見ながら、私はもう一つの“核爆発の恐怖”を思い出した。ベトナム戦争真っただ中の1968年11月19日、米軍戦略爆撃機・B52が、嘉手納基地で離陸に失敗して墜落炎上した。「黒い殺人機」と呼ばれたB52は、沖縄から大量の爆弾を積んで発進、米軍によるベトナム攻撃の中心的な役割を担っていた。

そのB52が墜落した場所は、核兵器が貯蔵されていた知花弾薬庫(現・嘉手納弾薬庫地区)の真ん前、距離にしてわずか数十㍍、あと2~3秒で弾薬庫に突っ込んでいただろうといわれた。隠していたとは言っても、米軍基地の中に核を扱う部隊や施設が存在していることは、多くの軍雇用員や関係者が目撃しており、沖縄県民にとって核の存在は“公然の秘密”に過ぎなかった。(次回につづく)

2017年10月25日リンクURL