20年前の10・21~私たちはあの日を忘れない

10月21日は国際反戦デー。沖縄でも「安保法廃止、辺野古新基地建設阻止」の集会開かれた。

10・21反戦デー集会

<昨日の10・21反戦デー集会:県民ひろば>

それにつけても思い出すのは、1985年10月21日。

8万5千人の県民が宜野湾市の海浜公園を埋め尽くした。
3人の米兵が、小学生の女の子に性的暴力を働いたことに抗議するために。

あいさつにたった大田昌秀県知事(当時)は、
冒頭に「幼い少女の尊厳を守れなかったことを、行政の長としてお詫びする」と
県民の前に深々と頭を垂れた。

1985年 8万5千人が結集した県民総決起大会

1985年 8万5千人が結集した県民総決起大会

 

事件が起こったのは9月4日。少女が被害を警察に訴えたことで、事件は表面化したが
いたいけな少女の被害に地元のマスコミもどう扱っていいかわからず
新聞の3面にわずか数行の記事が載っただけだった。

起ち上がったのは、北京会議(第四回世界女性会議)から帰ってきた71人の沖縄の女性たちだった。
「女性への暴力は人権侵害であり、凶悪犯罪である」
北京会議の大きなテーマでもあった「女性への暴力」、その最たるものが軍隊による女性への暴力である。

戦後50年間(当時)米軍基地が集中し、外国の軍隊が長期駐留する沖縄で、
どれだけ多くの女性たちが軍隊の暴力にさらされ、
殺され、心身を傷つけられてきたことか。
その多くが、声も上げられず沈黙を強いられ続けている。

そんな中で警察に訴えた少女の勇気に応えるためにもと
北京から帰ってきた女性たちはたち上がった。

女性たちの小さな抗議集会が、各地でいくつも行われ、
ついに8万5千人の県民大会へと広がった。

人殺しが仕事である「軍隊は構造的暴力」である。
基地がある限り女性への暴力は起こり続けると、県民大会が終わっても、
女性たちは声を上げ続けた。
そして、「基地問題は人権問題」が、沖縄の共通認識になった。

基地への反発がこれ以上大きくなることに恐れをなした日米両政府が取った措置が
「普天間基地の返還」だった。
しかし、「返還」はすぐに「移設」にすり替わり、20年たっても解決できないまま
「辺野古」へとつながっている。

あれから20年、県民が求めた「基地の整理縮小と負担軽減 不平等な日米地位協定の改定」は実現することなく、軍隊の女性に対する暴力は、今も起こり続けている。

2015年10月22日リンクURL