天気予報は久々に晴れマーク。青い空を見上げると、キラキラと太陽がまぶしい。それでも木蔭は涼しい風が吹き抜ける辺野古の朝。
参加者一人ひとりが、先週大阪の女性が作成・届けてくれたバッチワークのゼッケンをつけてゲート前に座り込んだ。
30枚の中から私は写真のゼッケンを選んだ。三線(サンシン)を片手に歌う女性が、「何が だいじね!」と問いかける姿を、見事なパッチワークで表している。
朝から事件発覚である。メインゲートの正面に貼られていた英文のバナーが、両サイドの切れ端だけを残して切り取られていた。ここには下の写真にある英文のバナーが掲げられていた。
このバナーの真正面に、キャンプ・シュワブのメインゲートがある。
ゴールデンウィークが始まり、皆さんいろいろあるのであろう。水曜日にしてはいつもより少なめで、1回目の座り込み。
50年前の1975年のこの日(4月30日)がベトナム戦争終結の日だったことが話題に。80年前の沖縄戦ではひどい目にあった沖縄だが、ベトナム戦争では、嘉手納基地が米軍のベトナムへの出撃基地となり、ベトナムの人達からは「悪魔の島」と呼ばれた。沖縄は、米国のベトナム侵略に加担した加害の側だったことを忘れてはいけない。
いままた、米国に追随してアジアのどこかの国を敵視し、戦争を仕掛けようとしている日本。決して同じ過ちを繰り返えしてはならない。
当時、昆布の土地闘争の中で歌われた歌がある。「一坪たりとも渡すまい」その中にベトナムと繋がる沖縄が登場する。
一、東シナ海前に見て わしらが生きた 土地がある
この土地こそはわしらの命 祖先ゆずりの 宝もの
二、わしらは もうはや だまされぬ 老いた固き 手のひらは
野良の仕事の傷のあと 一坪たりとも 渡すまい
三、黒い殺人機畿〃が今日も ベトナムの友を 撃ちにゆく
世界を結ぶこの空を 再びいくさで けがすまい
※黒い殺人機⇒B52 爆撃機
一回目の座り込みを終えテントに戻ると、乗客のいない一台のタクシーがテント前に横付けし、2リットルペットボトルの飲み物一ケースと、お菓子ひと箱を置いて行った。毎月一回定期的に届けられているとのこと。走り去るタクシーに思わず帽子をとって頭を下げた。
こういう善意の方々に辺野古の闘いは支えられている。
2回目、3回目も人数は少な目。県外からの参加は一人もなかった。
沖縄のことばで書かれたプラカードを掲げて抗議する女性に、言葉の意味をたずねる若い県警機動隊。「おばあちゃんと孫の図」、これが平和なときの家庭での風景だったらどんなにいいだろうか!