今日も朝から冷たい雨。7:00に那覇を出発。8時すぎ辺野古に着くころは大降りになっていた。
こんな日の早朝は、来てくれる人も少ないだろうと思っていたら、豈図らんや9時の一回目の搬入に40人近くが座り込んだ。
大事な日に限ってよく雨が降る沖縄。「こんな日だからこそ、私が行かなくて誰が行く!」。うちなぁんちゅ(沖縄人)のそんな心意気が、これまでどれだけ多くの難題を乗り切ってきただろうか。
今日も朝から冷たい雨。7:00に那覇を出発。8時すぎ辺野古に着くころは大降りになっていた。
こんな日の早朝は、来てくれる人も少ないだろうと思っていたら、豈図らんや9時の一回目の搬入に40人近くが座り込んだ。
大事な日に限ってよく雨が降る沖縄。「こんな日だからこそ、私が行かなくて誰が行く!」。うちなぁんちゅ(沖縄人)のそんな心意気が、これまでどれだけ多くの難題を乗り切ってきただろうか。
3日(金)、東京から3人の友人たちが4泊5日の日程で来県。彼女たちに同行して、辺野古・伊江島などやんばるの旅をした。
友人らは当初、4月に沖縄へ来る予定だったが、コロナ禍でやむなく中止。今回も東京や沖縄のコロナ感染者数が収まらない中、直前まで大いに悩み迷いつつ決行を決断した。
日程を12月3日スタートにしたのは、翌4日に辺野古で行われる県民大行動に焦点を合わせたからだったが、これもコロナのせいで中止になったので、辺野古へは四日目の7日(月)の座り込みに参加することに。
まずは、昨日(月)の辺野古の様子からお伝えしたい。
前日は伊江島から日帰りで戻り、名護に宿泊。早朝、路線バスで辺野古へ向かった。私は、主に水曜日に参加しているので、月曜日の辺野古ははじめてである。曜日によって担当するリーダーが替わるため、集会の様子もそれぞれに特徴があって雰囲気が変わると聞いている。
8時半辺野古へ到着。人はまだまばらだったが、顔見知りが多かったのでほっとした。
小雨ながら午前中は、降ったりやんだりのあいにくの天気が続く中、30名余が座り込んだ。
ダンプの過積載は相変わらず、黙認する警察も相変わらずだ。
今日は、赤嶺政賢、高良鉄美両国会議員の姿も見えた。お二人とも特別席ではなく、みんなと一緒にゲート前に座り込み、ノロノロと牛歩デモ行進、共に怒りの拳を挙げた。
一回目の座り込みの後、私たちは4人はゲート前を抜け出し、汀間漁港から抗議船に乗って海上に出て埋め立て予定地を見せてもらった。
抗議船がフロートに近づくと、海保の警戒船が執拗に追いかけてきて立ち去るよう拡声器で「警告」を発する。
K9護岸では、今日から横付けしたスパッド台船を桟橋替わりして、2隻のランプウェイ台船が接岸、2隻同時に土砂の陸揚げを行っていた。工事の遅れにいらだった防衛局、土砂陸揚げの効率を上げるための作戦のようだが、「それでも大して効率は上がらない」と、平和市民連絡会の北上田さんら土木の専門家はみている。
港に戻りながら船長が見せてくれたのは、昨年の台風でがけ崩れを起こした辺野古弾薬庫真下の断崖。かつては核爆弾を貯蔵していたといわれる。いまも「核はない」という保証はない。ここで地震でも起きたら、沖縄中が吹っ飛ぶ危険極まりない場所である。
防衛局が、埋め立てによって産卵地を追い出された海亀のために、新たな産卵場所に指定した砂浜。生まれた砂浜に帰って来て産卵する習性をもつ海亀が、指定されたからと言って、ここに上陸、産卵するだろうか?人間のあまりの傲慢さに気分が悪くなる。
長年この海を航行する抗議船の船長は「このあたりで海亀を見かけたことはない」と断言した。
今日は天気が悪く海が濁っているため、残念ながらサンゴや熱帯魚が泳ぐ美しい亜熱帯の海の中を覗くことはできなかった。
海から戻り三回目の座り込みに参加。
「海亀やジュゴン、珊瑚のためにも頑張らなければ」と決意を新たにした。
泡瀬干潟の埋め立てに反対して活動するこの方は、泡瀬干潟に生息する貝たち(貝殻)と一緒に(胸と背に引っ提げて)辺野古ゲート前にやってくる。
平和市民連絡会は、毎週金曜日安和桟橋前での抗議行動担当ですが、今日は、11時から先日(1日)急逝された高垣喜三さんの友人葬(お別れ会)に参列するため、抗議行動を一時中断して、本部に向かう予定です。
朝から小雨が降り続く中、いつもの通り7:00に那覇を出ました。出発間もなく天候不良のため安和や本部・塩川港での作業はないということがわかり、辺野古ゲート前へ合流することになりました。
この冬初めての寒さとの天気予報。雨のせいだけでなく、かけがえのない闘いの仲間を失った悲しみと、日本の政治の貧しさが寒さを増幅させ、一層身に染みる辺野古ゲート前。
一回目の搬入が終わった後、またバスに乗り合わせ、葬儀場のある本部町へ向かいました。親しい友人であっても、「ゲート前に残って抗議行動を続ける、それが供養」という人、どうしてももう一度高垣さんに会いたいと葬儀に参列する人、思いはそれぞれです。
ご本人の生前からのご希望で、「告別式はしない」と伝えられていましたが、たくさんの友人仲間がお別れに駆け付けていました。
それでも、葬儀本来の儀式的なことは一切なく、沖縄の慣習として告別式には火葬後のご遺骨と遺影にお別れをしますが、火葬前のご遺体を前にして焼香、直接お顔を拝ませていただき、最後のお別れをすることができました。
「高垣さん、本当にお疲れ様でした。残された私たちは、まだしばらく頑張りますので、どうぞ、天国から見守ってください」。こころからご冥福をお祈りします。
辺野古ゲート前で 自ら作詞した「心さわぐやんばるのうた」を歌う高垣さん。その優しく朗々とした歌声は、人柄がにじみ出ていて多くの人たちから愛されました。
お別れの後、一緒にバスに乗ってきた皆さんは、また辺野古へ戻り、座り込みを続けますが、私は、午後から別の日程が入って居るため、友人の車で那覇へ戻りました。