美ら海を守るのは未来への責任 ~ 渡具知名護市長に抗議 12月16日の辺野古

 雪国の皆さんには笑われそうだが、寒い!この冬初めて最高気温が20度を割り18度、最低気温は15度との予報。そのうえ朝から小雨ながら降ったりやんだりのぐずついた空模様が一日中続いた。

 今日は、一回目の座り込みの後、那覇から2台のバスで参加の平和市民連絡会のメンバーは、正午過ぎから行われる名護市長への抗議集会へ参加の予定。 
 いつものように9:00の資材搬入に備えて30人ほどで座り込み開始。

 一回目の搬入が終わると早々に昼食を済ませ、正午の2回目の搬入に備え、20人ほどを残して2台のバスに分乗して名護市役所へ向かった。

 名護市では開会中の市議会に、渡具知市長は沖縄県から提出(諮問)を求められていた「辺野古埋め立て設計変更に対する意見書」を議案として提出したが、それが「設計変更に異議はありません」というたった三行の内容だったという。


 

 「辺野古ゲート前」と「安和桟橋前」からも駆け付け、朝から議会を傍聴していた名護市民も加えて、120人近くが集まった。昼食時間中の名護市議会野党議員の皆さん全員も参加しての抗議集会となった。

 オール沖縄会議現場部会長の山城博治さん司会し、野党議員団から挨拶、報告があった後、14日月曜日からずっと名護市議会を傍聴してきた平和市民連絡会の北上田毅さんが、状況を報告した。

「県を挙げて、国の暴挙に抵抗しているような大きな問題に、名護市の意見がたった三行で扱われるというのは、名護市民を冒涜している。しかも、しっかり議論すべきこんな大切な問題を、県は意見書の締め切りを3月26日としているにも関わらず、わずか今日一日で片付けようとする魂胆に怒りが収まらない。野党市議団が頑張って渡具知市長を追い詰めている。」と山城さん。

 北上田さんも14日から議会を傍聴。「渡具知市長は、これまで辺野古埋め立て対する賛否を明らかにぜずごまかして来たが、これで辺野古推進であることがはっきりした。しかも、意見書の議会提出の前に、国土交通省に”これでいいか?”とお伺いを立てていた。国のやっていることへの意見書に、国に助言を求めるとは何事か!

 たった三行の名護市の意見書は、埋め立て全体に対するものではなく、”資材置き場として使用する名護漁港周辺の埋め立を取りやめるという部分的な設計変更のみに限定し”意義はない”と意図的に矮小化した。

 今回、国が設計変更を出した大きな原因となった軟弱地盤の問題や、活断層の存在、設計変更によって生じる環境問題など、本質には全く触れられていない。

 野党議員団の追及に、渡具知市長が答弁に窮する場面が何度もあり、あまりのお粗末さに、与党議員からさえ、”今回は議案を取り下げ、2月の議会で改めてしっかり議論してはどうか”と提案されるほどだった」と報告した。

 県内全国をはじめ世界から寄せられた設計変更に対する2万通余りの意見書のうち、名護市民からの意見書は600通近くあり、そのほとんどが、埋め立て反対だったという。

 山城さんは「辺野古の新基地問題は、名護市民、県民のこれからの200年先までの未来に関わる死活問題である。名護市から県に提出する意見書は、多くの市民の意見を反映するものでなければならない」と集会を締めくくった

 

 名護市役所での抗議集会を終え、私たちはまた辺野古ゲート前の座り込みに戻った。 

 多くの市民の抗議を受けて名護市議会は、この問題を2月議会で改めて審議し直すことになったという。

 名護市には官邸直属の官僚が二人派遣され、渡具知市長を裏から操っている。それは、普天間基地を抱える宜野湾市、嘉手納基地を抱える沖縄市も同じ状況。他の市町村でもあるかもしれない。沖縄を思い通りに動かし、国防の捨て石にしたい国の思惑が、今回の問題を引き起こした。許し方。それも氷山の一角に過ぎないことを、心しなければならない。

 

 

 

 

2020年12月17日リンクURL

土砂投入から2年 海上集会 ~  12月14日の辺野古

 2018年12月14日、辺野古の海に土砂投入が始まって2年目のこの日、海上抗議集会が行われた。私は参加できなかったが、沖本裕司さんが写真を提供して下さったので、共有します。

 

 

 カヌー27艇、抗議船6隻、ボート1艇、総勢50人の参加で、海上での「辺野古NO」のアピール行動が行われた。

 

 高速で走りまわる海保のゴムボートに追いかけまわされながら、プラカードやバナーを掲げ必死に、新基地反対を訴える一人乗りの小さなカヌー。カヌーが転覆するのも構わず、ゴムボートからカヌーに飛び移る海保。無謀、危険極まりない。

 

 

 抗議船からは、いつもゲート前で「辺野古抵抗の歌」を歌いみんなを元気づける私たちの仲間が、抗議の歌声を響かせた。

 抗議船に乗り、はじめて埋め立ての現場を目の当たりにした二人。「これだけ土砂が投入され、しかも数日雨続きで透明度が落ちているはずなのに、こんなにも青く澄んだ辺野古の青い海。この美ら海を、どんなことがあっても守らなければならないと、改めて思った」と、感想を語った。

 

 

 

2020年12月16日リンクURL

「戦争と平和」の闘いの軌軌跡を訪ねて ~ やんばる・ 伊江島旅 ⑤ 伊江島編( 下)

  謝花さんのお話に高揚する気持ち冷めやらぬまま、島めぐりに出かけた。沖縄戦の傷跡、阿波根さんを先頭に島の人たちが闘った土地闘争の痕跡、今なお拡充が続く米軍演習場の現状を知りたいと、わびあいの里のスタッフに案内をお願いしていた。夕方4時伊江島発の船に間に合わせて、かなり駆け足の行程になりそうだ。

 このような平和学習の案内も、わびあいの里の活動として行っていると、詳しいい伊江島情報を教えて下さったのも、高垣喜三さんだった。お元気なら、「日曜日は塩川の監視活動も休みなので、もしかしたら伊江島で会えるかもね」と、笑顔で話してくださった高垣さん。残念でならない。

 まず案内されたのは、戦時中、島の住民が隠れた自然の洞窟・アハシャガマ。

 沖縄本島の「ガマ」で起こったと同じように、日本軍によって引き起こされた「集団自決」の現場。村民150人が犠牲になったと記されている。

 島のシンボル・タッチュー(塔頭)に登る途中で見たのは、米軍の艦砲射撃の跡が生々しく残る公証市場の建物。戦争遺跡として残されている。

 伊江島タッチューへは、8合目辺りにある駐車場まで車で登れた。ここから頂上までは自分の足で、10分もあれば行けるのだが、この日は雨模様で急な岩場は危険なのと、何よりも時間がなかったので断念した。

 島で唯一の山、頂上からは、360度島の全容が見渡せる。戦時中は要塞にも見えたのか、米軍の砲撃の的になったという。

 この見事な「ガジュマル」の木も戦争遺跡。井上ひさし原案、こまつ座が舞台化した「木の上の軍隊」は、終戦を知らぬまま2年間、このガジュマルの木の上で暮らした2人の日本兵の実話が元になっている。昨年、沖縄でも上演された。

 伊江島に上陸した米軍は、基地拡張のため住民全員を慶良間諸島に移送。住民が誰もいなくなったこの島で二人の日本兵は、米軍に見つからないように、昼は木の上に潜み、夜なると地上に降りてきて食料を調達、畑も耕していたという。すぐそばに米軍の兵舎もあり、米兵が木の下を頻繁に行き来する中、よくも2年間見つからなかったものだ。

 伊江島の「戦争」はいまだ終わらない。米軍によって強奪された島の土地は、島の全面積の35%を占め、海兵隊のパラシュート降下訓練や軍用機の発着訓練場として今も使われ続けている。

 普天間にオスプレイが配備された後は訓練が激化し、騒音だけでなく、兵士や物資の民間地への投下ミスなどの事故も多く起こっている。さらに米軍は今年6月、滑走路の強化工事を行い、基地機能の強化を行った。

 オスプレイ200機が常駐する辺野古の新基地が完成すると、辺野古、高江、伊江島を結んで飛行訓練のトライアングルコースが出来ると目論まれている。

 阿波根さんが夢見た理想の農民学校のための土地は、いまだにこの米軍基地の中にある。住民の多くは、米軍への土地提供の契約に応じない「反戦地主」になった。しかし、長い年月を経て、世代交代もあり反戦地主が減少してしまった。阿波根さんは契約を拒否し続け、2002年に亡くなった後も、謝花さんらわびあいの里が引き継いで「反戦地主」貫いている。 

 島めぐりの最後は、阿波根さんたち島の住民が島ぐるみで闘った「団結小屋」を訪れた。老朽化が進み取り壊しの危機に陥ったが、全国から資金を集めて昨年改装されたばかりという。

 団結小屋の内にも外にも、人々が闘いの心の拠り所としてきた「非暴力、無抵抗の抵抗」を誓った名言の数々が力強い墨字で記されていた。

 中でも米軍との交渉時の心得を説いた11か条の「陳情規定」は、辺野古の座り込みにも大いに参考になる。

一、反米的ににならないこと。(反軍であって反米ではない)

一、怒ったり(相手の)悪口を言わないこと。

一、耳より上に手を挙げないこと。米軍は我々が手を挙げると、暴力をふるったといって写真を撮る。(辺野古では機動隊がこの手法をとって、市民を逮捕する手段に使っている)

一、軍を恐れてはならない。

一、沖縄人同士は、いかなることがあっても決して喧嘩はしない。(仲間割れしない)

一、人間性において、生産者である我々の方が軍人に優れている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切である。etc…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塀や壁に書き込まれている琉歌は、闘いの中から生まれた歌。人々はこれらの琉歌を地元の民謡にのせて歌いながら、座り込みの現場や乞食行進を行ったという。直接的な勇ましい闘いの歌だけではない。自然の美しさを讃える歌に、島人の感性の豊かさがしのばれる。

 その伝統は、辺野古の座り込みでも生きている。このブログでも紹介している「辺野古抵抗の歌」の数々は、辺野古の座り込みの中から生まれた。すぐにみんなで一緒に歌えるよう、おなじみの沖縄民謡やよく知られた歌謡曲の替え歌が多い。

 

 

 

 

 

ガイドをつとめてくださったわびあいの里のスタッフが、上の写真の琉歌を地元の民謡で歌ってくれた。県外出身ながら三線もなさるという彼女の美しい歌声が胸に沁みた。

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 今回のやんばる・伊江島の旅は、どこも初めての場所ではなかったが、私のなかで記憶を新たな視点で問い直す学び多い旅となった。この機会を与えてくれた友人たちに、改めて感謝したい。

 この日も名護市内に一泊して、翌7日(月)に、辺野古の座り込みに参加した。その様子は①で紹介した通りである。

 

 

2020年12月14日リンクURL