この虹に願いを ~ 今日(10月18日)の塩川港

 金曜日、私たちのグループ(平和市民連絡会)は、安和での抗議行動担当日。7:00のバスで那覇を出発した。途中、今日は安和港からの土砂搬出はないと判明。急遽、本部塩川港に行く先が変更になった。

 いま、辺野古新基地建設の抗議行動は、メインの辺野古のゲート前をはじめ、埋め立て土砂の搬出港である琉球セメント安和港とここ本部町塩川港の3つの拠点で行われているが、一番過酷な場所がここ塩川港である。広いうえに、近くにトイレもなければ弁当を買えるような店もない、休息ができる木陰一つない。

 そんな場所で、いつもは本部島ぐるみの皆さんが中心となって、少ない日は4~5人で抗議行動を行っている。今日も私たちが到着した時はわずか4人でがんばっていた。

 9時前に到着したときは、すでにダンプによる台船への土砂積み込みが始まっていた。ここでできる抗議行動は、ひたすらこのダンプの前を牛歩戦術でノロノロ歩く順法闘争である。

 安和では、牛歩戦術をやっていると信号が変わるたびにに機動隊がやってきて角に追いやられるが、見渡しても機動隊がいない。聞けば、防衛局からの要請があればすぐに出動できるよう、本部港で待機しているのだという。

 抗議行動は20人ほどのわずかな人数なのに、一時間ほどして、身動きの取れなくなったダンプが土砂を積んだまま渋滞。台船に土砂を下ろした空のダンプも、柵の中で立ち往生。かなり効果のある順法闘争だ。ついに北部国道事務所の職員が、抗議行動をやめるよう警告に来た。続いて機動隊がやってくる手はずになっているようだ。

 間もなく、機動隊がやってきた。

 それでも、ここは誰でも出入り自由の公共の港、辺野古ゲート前のように私たちを強制排除することはできない。せいぜいノロノロ歩きを「危ないからもっと早く!」と急かせるだけだ。「車が通りまーす!危険ですからどいてください」と彼らが言うと、私たちも「人が通りま~す!通行妨害しないでくださ~い」と負けずに言い返す。

 しかし、その間にも台船には徐々に土砂が積みあがっていく。誰がどこから見ても全くの赤土とわかるシロモノを「岩ズリ」と言い張る厚顔無恥の大ウソが、大手を振ってまかり通るこの国の国民であることが恥ずかしい!

しかも、その「岩ズリ」を安和鉱山から搬出すること自体が違法であることも明らかになっているのだ。

 10時過ぎ、とつぜん霧雨がちらついたかと思うと、台船の向こうに色鮮やかな大きな虹が出現した。

 機動隊やダンプの運転手に向かって、誰かが叫んだ。「あの虹を見ろ!この美しい自然を汚すな。恥ずかしくないか!」

確かに、ここで繰り広げられている光景は、あの美しい虹にふさわしくない。 

 私も、機動隊員に言った。「あの赤土が、毎日ダンプ5~600台分も海に投げ入れられるのよ。あなたは、胸痛くないですか?」、言いながらふいに死んだジュゴンの映像が浮かんできて、不覚にも思わず涙ぐんでしまった私に気づいたのか「僕らにはわからないです」と、若い機動隊員が目をそらしながら応えた。

 正午前、一隻目の台船が赤土を満載して辺野古へ向けて出て行ったあと、私たちも、バスで5分ほどの本部港のターミナルに移動して、しばしの昼食休憩に入った。

 午後にはまた二隻目の台船に積み込みが始まり、同じように牛歩戦術で抗議行動を続けた。

 午後3時、まだトラックの赤土搬入は続いていたが、これから2時間近くかけて那覇に戻らなければならない私たちは、後ろ髪惹かれる思いで、帰路のバスに乗りこんだ。早朝から頑張っている本部島ぐるみの4人の人たちを残して……。

 

2019年10月18日リンクURL

デニー知事二度目の訪米 ~ 辺野古反対を訴える

14日、玉城デニー知事は、米国に沖縄の民意を伝え、「辺野古基地断念」を訴えるため、就任以来2度目となる訪米に出発した。

「県民は知事と共にあります!」14日、見送りに集まった県民に激励を受ける玉城デニー知事。(那覇空港=写真提供:沖本裕司さん)

<16日 琉球新報>

 

 「知事、県民がついています。頑張ってきてください!」大勢の県民に見送られて、出発するデニー知事。

<追記>玉城知事は、16日未明(現地時間)首都ワシントンに到着。16日は終日、米連邦議会の関係者らと面会し、上下両院で協議している2020会計年度の国防権限法案の文言に、上院が提案している「在沖米軍再編の再調査」を盛り込むよう要請する予定。面談相手などは公表されていないということです。

2019年10月17日リンクURL

総重量40t 世界一の「那覇大綱挽き」 ~ 今年は引き分け

 全長186m、総重量40トン220kg、綱直径1m58cm、手綱数236本、挽き手1万5000人、参加人員27万5000人、ギネスも認めた世界一の綱引き「那覇大綱挽」が、今日(13日)那覇市の久茂地交差点中心に国道58号線を全面交通止めにして行われました。

 午後4時から綱を引くと聞いていたので、3時半ごろに会場へ向かいましたが、あまりの人の多さに、綱に近づくこともできません。林立する旗頭だけは見え、大綱引きの雰囲気を伝えてくれます。

 40tもの大綱なんて想像もつかないでしょうから、「那覇大綱挽」のホームページから写真を拝借しました。

 那覇大綱挽の歴史は、琉球王朝時代にさかのぼり、「琉球」が国際交流都市として繁栄するに伴い、国王襲位の慶弔祝賀行事としてひかれるなど、琉球王国独特の大綱挽に成長しました。1935年(昭和10年)まで毎年挽かれてきましたが、沖縄戦で中断され、現在の「那覇大綱挽」は、1971年(昭和46年)那覇市制施行50周年を記念して復活したものです。

 1m58cmもの大綱は直接抱きかかえて引くことはできないので、大綱のわき腹から、ムカデの足のように突き出した枝綱を引きます。

 1995年(平成7年)ギネス認定、さらに97年その記録を更新したのが冒頭に紹介した数字です。誰でも参加することができ、国籍や性別年齢を超えた一大イベントでテレビ中継されるほどの大行事に発展しています。


 黒装束のむむぬちはんたー(股引半套)を身にまとった各地区の青年たちが舞う旗頭(はたがしら)が、この綱挽を応援する村の旗印です。

昔は、この旗頭振りのリーダーになることが青年たちのあこがれの的だったそうです。

 綱引きが始まる前に行われるセレモニーの一つ「シタク」。王朝時代の武将に扮したシタクが東西それぞれから登場(写真は東の武将・鬼大城、ちなみに西は安麻和利)、”我陣営に勝利あり”と、張り合い引手を鼓舞します。

 4時40分ごろ始まった綱引きは、5分足らずで決着、私は東側にいて勝どきが上がったので、東が勝ったと思ったのですが(周辺の人たちはみんなそう思った)、後でわかったことは、綱引き中に綱が切れ、裁定の結果引き分けということになったということです。途中で綱が切れるというのはこれまでになく、初めての出来事だそうです。

 戦前の話ですが夕方に始まった綱引きは、勝負が決まらず、明け方まで引き合ったということも度々あったそうです。

 <勝どきを上げる東側の人たち>

2019年10月13日リンクURL