鎮魂の祈りこだまする渡嘉敷島 

 昨日(4月2日)は、3月28日の慰霊祭に続いて、再び渡嘉敷島を訪れる機会を得ました。

 辺野古の座り込みで顔なじみの方々が「渡嘉敷島に行こう」と声かけあって集まり、案内役を頼まれたのです。当初は3~4人の予定でしたが、一人増え、二人増えして最終的に13名、レンタカー3台に分乗して、島の戦争遺跡を回りました。

 少し風もあり、波も高く、薄曇りで決して好天気とは言えませんでしたが、慶良間ブルーの海をしのばせてくれるには十分な景観でした。

 

 まずは、これから戦跡地に入るご挨拶を兼て、戦没者の霊を祀る「白玉の塔」にお参り。メンバーの中にお坊さんが3人もいらしたので、お祈りをしていただきました。お線香を立て、読経に合わせて黙とうをささげました。

 そして、西展望台からケラマ海峡を望む絶景を眺めながら、慶良間の島々がなぜ「集団自決(強制集団死)」という沖縄戦最悪の惨劇に見舞われなければならなかったのか、その地理的、歴史的、文化的背景を説明。

 続いて、沖縄本島が一望できる東展望台に移動し、慶良間の島々と沖縄本島ととの位置関係を確認、大交易時代の航海の要所としての地理的条件が、後にペリー来航や、沖縄戦の米軍侵攻にも利用されたことなどを伝えました。 

 渡嘉敷島の戦争遺跡はそのほとんどが、現在の国立青少年交流の家の敷地内にあります。そこは北山(にしやま)と呼ばれ、「集団自決」の現場となった場所で、戦後ここが米軍のミサイル基地(1961年~68年)として接収されたため、この地にあった「白玉の塔」も最初にお参りした場所に移転を余儀なくされたのです。さらに1972年の「復帰」により、今度は「国立青年の家」となりました。

 元の「白玉の塔」跡には、いま「集団地決地の碑」が建てられ、碑文やパネルなどで渡嘉敷島の「集団自決」の実相を伝える場所となっています。

 ここの碑の後方の雑木林のなかに、集団自決の現場があります。

 当時の島の人口の3分のⅠ以上に当たる329名が、日本軍によって一か所に集められ、残虐きわまる形で命を落としたまさにその現場です。ここでも、読経に合わせて黙とうを捧げました。祈りの声が風に乗って雑木林の中を縫うように響き渡りました。何よりの供養になったと思います。

 私は特定の宗教を持ちませんが、心からの祈りは、宗教の枠を超えて通づると信じます。気持ちが暖かくなり、あふれる涙を禁じ得ませんでした。

 さらに、日本軍の避難壕群や特攻艇の秘匿豪なども見ることが出来ます。

 

 

<日本軍避難壕群>   <特殊特攻艇秘匿豪> 

 そして、渡嘉敷島の沖縄戦で忘れてはならないことは、「慰安所」跡が遺されていることです。沖縄戦ではこの小さな沖縄の島々に145ヵ所の日本軍「慰安所」があったと言われていますが、その中の様子は全くわかっていません。が、唯一分かっているのがこの渡嘉敷島の慰安所です。ここには朝鮮半島から連れてこられた7人の女性たちがいました。そこから生き残った一人の女性により、その様子が明らかになったのです。ここで詳しく紹介することはできませんが、彼女たちの存在を忘れず、後世に残すために「アリランのモニュメント」が建立されました。

 

 

 

 

 

 

 ツアーの性質上、シンドイ話が続きましたが、昼食時間にはトカシクのサンゴの浜で貝殻拾いや、短い時間でしたが泳ぎを楽しんだ若いメンバーもいます。 

 里山ではたわわに実った桑の実をもいで頬張りました。時間があれば、ヤマモモやバライチゴ狩りもできる季節です。豊かな自然が実感できる島でもあります。

 

2023年4月3日リンクURL

2023年 🐰 本年も どうぞよろしくお願い致します !

 新しい年が  希望の光さす新生の年になりますように  ❣


 31日から渡嘉敷島に帰っています。写真は今日(2日)の朝日。雲が多く、なかなかシャッターチャンスがとらえられませんでしたが、雲間からのほんの一瞬の輝きです。

 
 港の入り口にある城(グスク)と、南側の山の裾にある立神岩(ような)の間から、この季節の朝日は昇ってきます。私の大好きな風景です。

 
 港近くの民家の石垣から顔をのぞかせたブーゲンビレア。燃えるような赤い色がまぶしい。

 

2023年1月2日リンクURL

韓国からの中学生平和学習ツアーのガイドで渡嘉敷島に

 昨日(16日)は韓国からの中学生を案内して、渡嘉敷島に渡った。

 一行24人(中学生20人、引率教師1、旅行社2、ガイド1)は、当初国立青少年交流の家に一泊して、ゆっくり渡嘉敷島の自然と歴史、文化、そして沖縄戦について学ぶ予定だった。しか、天候が思わしくなく、翌日は船の運航が難しいかもしれないとの懸念から、急遽日帰りに切り替えられた。
 果たして当日は、大雨の中での厳しい行程となった。

 渡嘉敷島の戦争遺跡の多くは、奇しくも国立青少年交流の家のある北山(にしやま)に集中し、広い敷地内に点在する。中学生らは、その広い敷地内を徒歩で回ることになっていた。

 しかし、あまりの悪天候に5メートル先の視界もきかず、本来なら輝くけらまブルーの慶良間海峡に浮かぶ美しい島々の光景に、歓声を上げるはずの西展望台からは何も望むことはできなかった。

 <本来なら、西展望台から望めたはずの島々>

 ずぶぬれになりながら、やっとの思いで集団自決場の碑までたどり着いたが、説明もそこそこに切り上げて、青少年交流の家施設内の一室で、集団自決の生き残りである吉川嘉勝さんから、体験談を聞かせていただいた。(写真を撮り損ねました)

 吉川さんは当時6歳。母が子を、夫が妻を、兄が姉妹をと、愛する家族を手にかけた阿修羅の自決現場の様子、母親の転機で、自決場から逃れられた吉川さんの実体験は、中学生には大きな衝撃であったろう。

 結局、白玉の塔や日本軍本部壕、自決現場、慰安所跡などへは、大雨が収まらないため、足元不安もあって行くことを断念した。

 昼食後は、阿波連ビーチに移動し、待ちに待った海洋研修で大型カヌーに挑戦した。

 

 はじめて見るサンゴの白い砂浜・青い海に歓声を上げ、水上バイクに助けながらも自分たちで海洋に漕ぎ出し、およそ25分を漕ぎ切った。締めくくりは海に飛び込んで、大雨も寒さも10代の若さで吹き飛ばし、全身で海を楽しんだ。

  最後は彼らがこの島を訪れた目的の一つである「アリランのモニュメント」を訪ねた。モニュメントの建立には、敷地提供や陶板の制作など、島の人々も少なからず関わったことも伝えた。

 沖縄戦で大きな被害を受けながら、朝鮮半島に対しては日本人として加害性も併せ持つ沖縄の「戦争」を伝えたつもりだが、悪天候によるハプニングに加えて、通訳を介する言葉や時間的な制約などもあって、必ずしも十分な説明ができたとは言えない。感性の柔らかな彼らはどう受け止めただろうか。

 

2022年12月17日リンクURL