ヌチドゥタカラの家 (わびあいの里)~ やんばる・伊江島の旅③ 伊江島編 (上)

 12月5日(日)、やんばる・伊江島の旅三日目は伊江島に渡った。

 数日前から悪天候が続き、波が高く、船が運航するのかどうかも、当日朝まで全くわからなかった。友人たちを迎えて以来この三日間「伊江島に行けますように!」と、ひたすら祈った。

 当日朝、宿泊した名護のホテルの窓から見える名護湾の沖は、白波が立っていて心配したが、無事渡ることができた。

 本部港から30分のフェリーの旅。おなじみのイイジマタッチューに迎えられて伊江島の地を踏んだ。

 真っ先に阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんが集めた資料と、その活動の軌跡を収蔵する反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を訪れた。

 阿波根昌鴻さんは、戦後、伊江島の土地の約6割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立った方である。

 「全沖縄土地を守る協議会」の事務局長や「伊江島土地を守る会」の会長を務め、1955年7月から翌56年2月にかけて、沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行って米軍による土地強奪の不当性を訴え、1956年夏の島ぐるみ土地闘争にに大きな影響を与えた。

 

 <写真は許可を得て撮影・掲載しています>

 「ヌチドゥタカラの家」は、1984年12月8日に開館しました。平和のためには戦争の原因を学ばなければならないという阿波根の考えを具体化したもので す。人間の生命を粗末にした戦争の遺品と平和のためたたかった人々の足跡を紹介しています。土地闘争の中で収集した米軍の爆弾、原爆模擬爆弾、鉄線、標識や戦争直後の生活用品や闘争を記録した写真や土地を守る会の旗などを展示(ヌチドゥタカラの家ホームページより)

 館内には含蓄のある阿波根さんのことばがたくさん展示されているが、ここでは2つだけ紹介する。

 私は伊江島を訪れるのはこれで4度目。その都度ヌチドゥタカラの家にも訪れているが、いずれも仕事がらみ(取材)での訪問。それも最後に訪れたのはもう十数年前のことになる。

 改めて阿波根さんのことばに接して、胸にストンと落ちるものがあった。辺野古へ通うようになって、阿波根さんのことばの数々が、より深く理解できるようになったのではないかと思う。

 戦争体験のない私にとって、辺野古での座り込みは、国家権力の何たるかを、わずかながらでも実感できる体験となっている。その上で改めて阿波根さんのことばに出会い、熱く魂に染み入るのを体感した。

 

 阿波根さんに、「人間、(耕す)土地さえあれば餓死することはない」ということばがある。彼の夢は伊江島に農民学校を建設することだったという。建設途中で沖縄戦によって破壊され、戦争が終わってもさらに米軍によって、土地を奪われた。だから土地闘争だったのである。

 

 実は、阿波根さんには生前何度かお会いしている。やはりいずれも仕事がらみで、直接2時間ほどインタビューしたこともある。

 また、戦後米軍は伊江島を占領した後、基地を拡張するために足手まといになる住民全員を島外に移送した。その移送が先慶良間諸島だった。そのとき阿波根さんは私の故郷である渡嘉敷島に送られ、3年ほど住んでいたということが、最近明らかになっている

 

 次回は、阿波根さんとずっと闘いを共にし、現在もヌチドゥタカラの家の館長をつとめる謝花悦子さんのお話を紹介する。

 

2020年12月11日リンクURL

「障害者の日」に新基地断念を求めるアピール ~ 今日(12月9日)の辺野古

 今日も朝から冷たい雨。7:00に那覇を出発。8時すぎ辺野古に着くころは大降りになっていた。

 こんな日の早朝は、来てくれる人も少ないだろうと思っていたら、豈図らんや9時の一回目の搬入に40人近くが座り込んだ。

 大事な日に限ってよく雨が降る沖縄。「こんな日だからこそ、私が行かなくて誰が行く!」。うちなぁんちゅ(沖縄人)のそんな心意気が、これまでどれだけ多くの難題を乗り切ってきただろうか。

 

 辺野古ダムの湖面に、美謝川切替のためのボーリング調査の単管やぐらが建てられたということで、「昨日(8日)緊急に名護市長への要請と抗議の集会を呼び掛けたら、わずか3時間で60人がかけつけてくれた」と、山城博治さんが報告した。
 
 「渡具知市長は、『調査の敷地は民有地で地主の許可を得ており、市としては関知しない』と言っているが、市民側が、『そうではない!もっと勉強して対応しろ』と、名護市が関与すべき根拠となる資料を渡して抗議してきた」という。
 「違法もお構いなくあの手この手で強行してくる防衛局(国)に、こちらも間髪入れずに行動することが大事」と山城さん。
 
 
 
 
 
 降りしきる雨に、雨具は着ていても中まで滲み込んでくる。寒さで抗議の声も震えた。
 この日、ネット上では「こんな寒い雨の日に、バッカじゃないか!」とあざ笑うネトウヨの書き込みが拡散されていたという。
 
 
 今日12月9日は「障害者の日」。この日の前後に毎年開催されてきた「辺野古障がい者のつどい」が、今年はコロナ禍で開催できなかったことから、「辺野古  障がい者のつどい実行委員会が、「私たちは 辺野古新基地建設の断念を求めます」と、アピールを発表した。
 
 アピールによると「75年前、ナチスドイツはユダヤ人の大量虐殺の以前に、病人や障害者をガス室に押し込め、虐殺した。戦争の役に立たない者、足手まといになるものは抹殺するという優性思想の最たるもの。20万人の障害者が犠牲になった。
 辺野古新基地も戦争につながるもの。戦争になると障害者や弱者が真っ先に殺される。私たち障害者こそ辺野古の新基地建設に反対しなければならない。健常者と連帯して辺野古新基地建設断念を勝ち取ろう!」と訴えた。
 
 
 
 県内外から寄せられたメッセージも紹介された。その一つ伊江島・土の宿の木村ひろ子さんのメッセージ。
  
  俳優・中村敦夫さんのメッセージが心に響いた。
 
 「無限」と「有限」
「無限」の経済成長を求めるものは、最終的に「戦争」にたどり着きます。
彼らにとって「戦争」は最も効率的な経済政策だからです。
しかしながら、地球も人間の命も、辺野古の美しい海もすべて「有限」です。
自然を破壊し、大勢の命を犠牲にし、一握りの人間だけが富を独占しようという企てに、私たちは協力するわけにはいきません。
 基地建設に反対するすべての人々に、エールを送りたいと思います。
 
          2020年12月9日 (障害者の日に)中村敦夫
 
 
 交通事故で障がいを負い、身体と精神二つの障害を持つという糸満島ぐるみのメンバーが、自作の歌を披露した。自分にできることとして、安和や塩川、地元の街中でのスタンディング行動に歌とギターでアピール行動に参加しているという。
 
 
 
 今日も天候不良のため安和桟橋、塩川港の土砂搬出の動きはなく、水曜日安和担当の糸満しまぐるみなどのメンバーも辺野古に合流。正午の2回目の座り込みには、70名余に膨れ上がった。
 
 
 
 今日は一日雨の中での行動となった。コロナ禍、インフルエンザの季節、医療崩壊寸前で風邪くらいでは、病院で診てもらえないという。誰も風邪などひかぬよう祈るばかり。
 
 
2020年12月10日リンクURL

K9護岸からの土砂の陸揚げ加速 ~ やんばる・伊江島の旅① 12月7日の辺野古

 3日(金)、東京から3人の友人たちが4泊5日の日程で来県。彼女たちに同行して、辺野古・伊江島などやんばるの旅をした。

 友人らは当初、4月に沖縄へ来る予定だったが、コロナ禍でやむなく中止。今回も東京や沖縄のコロナ感染者数が収まらない中、直前まで大いに悩み迷いつつ決行を決断した。

 日程を12月3日スタートにしたのは、翌4日に辺野古で行われる県民大行動に焦点を合わせたからだったが、これもコロナのせいで中止になったので、辺野古へは四日目の7日(月)の座り込みに参加することに。

 まずは、昨日(月)の辺野古の様子からお伝えしたい。

 前日は伊江島から日帰りで戻り、名護に宿泊。早朝、路線バスで辺野古へ向かった。私は、主に水曜日に参加しているので、月曜日の辺野古ははじめてである。曜日によって担当するリーダーが替わるため、集会の様子もそれぞれに特徴があって雰囲気が変わると聞いている。

 8時半辺野古へ到着。人はまだまばらだったが、顔見知りが多かったのでほっとした。

 小雨ながら午前中は、降ったりやんだりのあいにくの天気が続く中、30名余が座り込んだ。 

 ダンプの過積載は相変わらず、黙認する警察も相変わらずだ。

 今日は、赤嶺政賢、高良鉄美両国会議員の姿も見えた。お二人とも特別席ではなく、みんなと一緒にゲート前に座り込み、ノロノロと牛歩デモ行進、共に怒りの拳を挙げた。

 一回目の座り込みの後、私たちは4人はゲート前を抜け出し、汀間漁港から抗議船に乗って海上に出て埋め立て予定地を見せてもらった。

 抗議船がフロートに近づくと、海保の警戒船が執拗に追いかけてきて立ち去るよう拡声器で「警告」を発する。

 K9護岸では、今日から横付けしたスパッド台船を桟橋替わりして、2隻のランプウェイ台船が接岸、2隻同時に土砂の陸揚げを行っていた。工事の遅れにいらだった防衛局、土砂陸揚げの効率を上げるための作戦のようだが、「それでも大して効率は上がらない」と、平和市民連絡会の北上田さんら土木の専門家はみている。

 

 

 港に戻りながら船長が見せてくれたのは、昨年の台風でがけ崩れを起こした辺野古弾薬庫真下の断崖。かつては核爆弾を貯蔵していたといわれる。いまも「核はない」という保証はない。ここで地震でも起きたら、沖縄中が吹っ飛ぶ危険極まりない場所である。

 防衛局が、埋め立てによって産卵地を追い出された海亀のために、新たな産卵場所に指定した砂浜。生まれた砂浜に帰って来て産卵する習性をもつ海亀が、指定されたからと言って、ここに上陸、産卵するだろうか?人間のあまりの傲慢さに気分が悪くなる。

 長年この海を航行する抗議船の船長は「このあたりで海亀を見かけたことはない」と断言した。

 今日は天気が悪く海が濁っているため、残念ながらサンゴや熱帯魚が泳ぐ美しい亜熱帯の海の中を覗くことはできなかった。

 海から戻り三回目の座り込みに参加

 「海亀やジュゴン、珊瑚のためにも頑張らなければ」と決意を新たにした。

泡瀬干潟の埋め立てに反対して活動するこの方は、泡瀬干潟に生息する貝たち(貝殻)と一緒に(胸と背に引っ提げて)辺野古ゲート前にやってくる。

 

2020年12月8日リンクURL