ラムサール登録湿地 慶良間全域に拡大

<琉球新報 23日朝刊より>

環境省は22日、国際的に重要な湿地保護を目指すラムサール条約に登録されている慶良間諸島海域について、登録面積を約23倍に拡張するなどの方針を中央環境審議会の自然環境部会に報告した。

ラムサール 拡張される登録区域

353ヘクタールから座間味、渡嘉敷両村のほぼ全域となる8290ヘクタールに広げる。  昨年3月の慶良間諸島の国立公園指定を受けたもので、5月末にも正式登録される。

慶良間海域は拡張により、国内では琵琶湖(6万5984ヘクタール)、尾瀬(8711ヘクタール)に次ぐ3番目の登録面積になる。

2015年4月23日リンクURL

浜下り(旧暦3月3日)

昨日21日は、旧暦3月3日。
沖縄では、女の子の節句というより「女性の日」と言った方がいいかもしれません。

この日(渡嘉敷では4日)に浜に降り、潮水を踏むと穢れを払い健康に過ごせるという言い伝えがあります。
1~3日は大潮でもあり、絶好の潮干狩り日和りになります。

私も昨日は田舎(渡嘉敷島)に帰り、実に20数年ぶりの潮干狩りをしてきました。

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旧暦3月の大潮は
普段の引き潮では現れない干潟が浮上し、
渡嘉敷港の入り口にある「ぐすく」が年に一度陸続きになります。

イノウと呼ばれるサンゴ礁の干潟にできる潮溜まりに多様な海の生き物を見ることができます。

 

アマンナがいっぱい。巻貝のことをンナと言います。美味しいのとまずいのがあって
おいしい貝にはアマンナと言っていました。

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シャコ貝大きい!ヒトデも色鮮やかだ~!
うにもサンゴ礁のくぼみに身を隠しています。
トントンミー(トビハゼ)もはねまわっていたけど、カメラでは捕まえられなかった~!

DVC00084.JPGタカラガイ発見。生きたタカラガイを見たのは何十年ぶりでしょうか!
昔々、お金の代わり使われていたため「宝貝」と呼ばれているそうです。

サンゴです。まだ私の握りこぶしくらいの大きさ。
辺野古で、許可区域外に投入されたトンブロックがサンゴ押しつぶし、
でも、「まだ小さく、サンゴ礁にはなっていないので破砕しても問題はない」と沖縄防衛局がうそぶいているサンゴとは、こういうサンゴたちのことです。

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「大人を傷つけるのはいけないけど、子どもはつぶしても大丈夫」と言っているようなものです。赤ちゃんから大人に成長するのですから、子どもがいなくなれば、いつか大人もいなくなるのです。

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今日の収穫。アマンナにタカラガイ、ツノガイ、そしてナマコの一種ですが、本名は分かりません。

貝はアーサを入れて味噌汁に。ナマコもどきは炒めてニンニクたっぷりの甘辛醤油味で頂きました。私が子どもの頃はこれが日常の食卓でした。海の恵み、山や田畑の恵みで自給でき、お金で買う食べ物はごくわずかだったのです。

すべて渡嘉敷島産です

すべて渡嘉敷島産です

 

自分たちがいただく前に、必ずご先祖様にお供えします。

翌4日はサングヮチアシビ(3月遊び)。かつては、日頃家業や家事、育児に忙しい女性たちが、誰にも遠慮することなく、歌舞音曲を奏で、芝居見学、舟遊びなどおおっぴらに遊ぶことが許された日だったそうです。

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今は、村中の人たちが浜に集まって、お重を持ち寄り盃をかわしながら、唄ったり踊ったり。この1年に生まれた子どもたちの誕生祝、新一年生の入学祝い、島の学校へ新しく赴任してきた先生方の紹介なども、この場で行われます。

私は、現在喪中で華やかな席は参加を控えているため、10時からハーリーも予定されていましたが、後ろ髪ひかれる思いで午前中の船で那覇にもどりました。

2015年4月22日リンクURL

写真展~終わらない戦後 二人が撮らえた沖縄

知人二人がコラボして写真展を開いている。
気になりながらも、なかなか行くタイミングをつかめなかったが、
最終日の昨日になって、やっと行くことができた。

大城・山城写真展 チラシ 表二人とは、共に報道カメラマンで
大城弘明氏は沖縄タイムス、山城博明氏は琉球新報のカメラマンとして復帰前後から現在まで、ほぼ同時期に激動の沖縄を撮り続けてきた。

仕事上はライバル会社であり、取材現場では常に競い合ってきたであろう二人が、定年後とはいえ、共同して写真展をひらくことができるというのは
たぶん、二人が目指しているものが同じだったからではないだろうかと、勝手な感想を抱いた。

米軍圧政下の復帰闘争、癒えることのない戦争の爪痕、終戦から70年を経てもなお続く基地の重圧など政治的な現場だけでなく、人々の暮らし、古くから伝わる習俗や祭祀、島の自然まで常に住民目線でとらえ伝えてきたことがよくわかる。

展示された写真はおよそ500点、それでも2人にとってはほんの一部だという。

とくに、大城さんの個人史と重ね合わせ戦争の傷跡をたどった「家族の肖像」に、引き付けられた。
曾祖父母、祖父母、両親の壮絶な戦争体験。
父親は長崎での被爆体験を持ち、母方の家族が隠れていた避難壕を日本軍に追い出され、戦場をさまよう中、筆舌に尽くしがたい体験をした祖母と母の、身体に残された消えない傷跡が戦争の醜さを証言し、告発する。

二人は戦後生まれである。しかし、こうした家族の戦争体験を追体験し、記憶してきた。それは二人の特別な状況ではない。沖縄では70歳以上の人はみんな沖縄戦の地獄からの生還者であり、どの家庭でも必ず、戦争でなくなった家族が一人や二人はいる。私たちの世代はその体験を何度も聞きながらな育った。私も10・10空襲で祖父を亡くし、母は二度の”自決”の末死にきれず、米軍の捕虜になることで生き残った。90歳で亡くなるまで全身に無数の手りゅう弾の破片を抱いたままだった。

沖縄県民にとって、70年にわたる戦後生活も、戦争体験以上の苦難の連続だったのである。

20年にもなろうとする辺野古の反基地の座り込み。東村高江のヘリパット反対の闘い、オスプレイ撤去の普天間基地ゲート前行動。
沖縄の人たちがどうしてそこまで基地に抵抗するのか?その強さはどこから来るのか?とよく問われるが、その答えがここにある。単にイデオロギーで基地反対と言っているのではないのだ。

大城さんと山城さん

大城さんと山城さん

安倍総理をはじめ、おぼっちゃま、お嬢様育ちの二世・三世議員が幅を利かせる昨今の中央政治家には、戦争がどんなものか想像さえもできないだろう。

一つの写真展が、私のなかに改めて抑えようのない憤りを呼び覚ます。

2015年4月20日リンクURL