いい正月で~びる

 

新玉ぬ年に 炭とぅ昆布飾てぃ

心から 姿 若くなゆさ (正月かじゃで風より)

 

手作りの正月飾り

 

 本年もどうぞよろしく!

 

 

2013年1月2日リンクURL

札幌冬紀行

11月の末
今年一番の冷え込みだという札幌に降り立った。

飛行機の窓から眺める北の大地は
まばゆいばかりの白一色。
七年ぶりの北海道だった。

汽車の窓から

一ヶ月以上も前のことを今さらという声も聞こえそうだけど

どうして伝えたいことがある。

 

それは、アイヌの人たちのこと。

北海道へ行った主な目的とは別に、

案内して下さる方があって、アイヌの歴史・文化資料館である

ピリカコタン(アイヌ文化交流センター)を訪れる機会をいただいた。

コタン(アイヌの村)が再現されている

アイヌ語で家のことは「チセ」という

 

 

 

 

 

 

 

 

博物館には、かつてアイヌの人たちが使っていた生活用品などが

見事に復元され展示されていた。

独特の模様が刺繍やパッチワークで表現された衣装

鮭の皮で作られた服

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白樺の樹皮で編まれたバッグ

赤ちゃんをあやすゆりかご

 

 

 

これらの展示品は

アイヌ協会のみなさんが、すべて手作りで復元制作したという。

北海道開拓の名の下に和人によって

先住民であるアイヌの人たちの暮らしや文化が奪われていった歴史も語られている。

 

アイヌ民族に対して、未だに続く搾取と差別の現場にも立ち会った。

それは、「先祖の遺骨を返して!」と

3人のアイヌの人が、北海道大学を訴えた裁判の第一回公判を傍聴する機会を得たのだ。

 

いまだにこんなことがあるのだと

知らなかったことが、正直恥ずかしかった。

 

 

 

翌日、北海道新聞は

この裁判のことを、小さい記事で次のように伝えた。

 

北と南の端っこで、ともに受難の歴史を刻むアイヌと沖縄

共通するのは、問題の根底に差別の構造が横たわっていること、

常に、踏みつける側は、踏みつけられる側の痛みを知ろうとはしない。

 

 

2012年12月31日リンクURL

エピソード~ 御万人大パレード より

サウンドパレードの前に

海浜公園のステージで民謡を歌った4人グループは

かつて一世を風靡した”でいご娘”の4姉妹。

大ヒットとなり、今でもカラオケの人気曲「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は
彼女たちのデビュー曲でもある。

国内で唯一地上戦を経験した沖縄。
沖縄を守りに来たはずの日本軍の兵士より
一般市民のほうが 遙かに多く砲弾の犠牲となった。

あの戦争を生き残った沖縄の人々は、
みんな「艦砲射撃の食い残し」というのがこの歌の
タイトルである。

この歌は、でいご娘の父・比嘉恒敏さんの作詞・作曲。
戦争で家族を全部失った悲しみと、平和への願いを表現した。
当時、この歌を聴いた県民の多くが
「まるで私のことを歌っているみたい!」と、戦場で傷つき死んでいった肉親を思い
戦後の極貧の中、死にものぐるいで働き、苦労の末にやっと家族を築いてここまできた                    自らの体験を思い起こして涙した。

私の母も、カラオケで必ずこの歌を唄う、涙をながしながら…。

 

美しいステージ~その陰に…

美しいステージ~その陰に…

 

この歌が生まれたいきさつもすごい話だが、

エピソードの本題はその後の出来事である。

彼女たち4姉妹・でいご娘が
なぜ、オスプレーの配備、米軍人犯罪糾弾の「御万人大行動」の
ステージに上がったのか!

実は、この歌をつくった彼女たちの父・比嘉恒敏さんは
酔っぱらい運転の米軍兵士が運転する車にひき逃げされ亡くなった。

しかも、犯人は逮捕され、裁判にかけられたにも係わらず
一銭の賠償金も支払うことなく、米本国に逃げ帰り無罪放免となった。
今から、39年前のことである。

 

この曲がヒットした頃は

まだ若すぎて、真にこの歌の持つ意味を
理解していたわけではなかったと語る4姉妹。

戦争で家族を全部失い、自らの命さえも米軍に奪われた父の無念を改めて感じ、この歌い継ぐ活動を再開した。

いまなお、同じような事件が多発する沖縄、

その背景に、なんでもアメリカのいいなりで
まるでいまだに米軍占領下のような日本国の真の姿がある。

 

28日には、酔って那覇の住宅街で

民家に忍び込んだ米兵が逮捕され、

29日には、酔っぱらい運転で一報通行の道路を逆走して

民間人に怪我を負わせた海兵隊員が逮捕されたている。

2012年12月30日リンクURL