9条の碑シリーズ③ 沖縄に多い「9条の碑」

9条の碑について調べてみようと思ったのは
2年前、ある機関紙で「日本には9条の碑はひとつしかない。
しかも、それは個人の墓に刻まれたもの」という記事を読んで驚いたからだった。
というのは、沖縄にはいくつも「9条の碑」があるからだ。

「日本には一つしかない」(正しくは沖縄以外の日本)という状況は
まさに日本人の憲法に対する認識を表している。

2008年に東京で開催された「世界9条会議」に参加した折
外国の人たちから「9条は、日本人にはもったいない」と言われてはずかしかった。
なぜそういわれたのか?それは、「日本人は9条がいかにすばらしい価値あるものかわかっていない」から。「ネコに小判」、「宝の持ち腐れ」、ほんとうにもったいない!
そして彼らは口々にいった。「私たちの国にも9条がほしい」と。

1972年5月15日まで、沖縄は憲法の恩恵をうけられなかった。
戦禍と戦後米軍の圧政に苦しんだ沖縄の人たちが祖国復帰にかけた願いは
「9条がある平和憲法の下に帰る」ことだったと言っても過言ではない。

しかし、復帰してみればそれは「夢まぼろし」だった。
沖縄の人たちがあこがれた平和憲法はないも同然、憲法の上に「安保条約」が居座る日本になっていた。いまもその状況は変わっていない、どころかますます悪化の一途をたどっている。

去る5月1日、沖縄タイムスにこんな記事が掲載された。

九条の碑 写真

恒久平和を望み、住民や市町村が県内6カ所に建てた「9条の碑」。県外では寺の住職や市民により少なくとも4県5カ所で建てられ、1県で建設が進むが、建立は沖縄が突出して多い。専門家は「太平洋戦争で唯一の地上戦の経験や米軍施政下に置かれた沖縄では9条への思いが強い」とみる。(国吉聡志) 

 沖縄では、自治体が碑の建設に携わったり、建設後に碑を管理する事例が多い。他府県では行政が建設や管理に関わっている例は見当たらず、県民と自治体が足並みをそろえて平和を希求した沖縄の歴史の特殊性がうかがえる。 

 市町村が碑の建設に関わったのは那覇市、読谷村、西原町。那覇市の与儀公園にある「恒久平和の碑」は、市が沖縄戦終結40年の1985年5月に建設。読谷村役場入り口にある「9条の碑」は山内徳信村長(当時)の「平和行政」の一環で、95年に完成。西原町では翁長正貞町長(当時)が2002年に碑を建てた。 

 また南風原町(07年完成)、宮古島市(同年完成)、石垣市(04年完成)にある「9条の碑」は、地元の9条の会のメンバーや住民が寄付金を募って建立。完成後、市町村に寄贈され、現在は自治体が管理している。

 一方、県外では茨城、長野、石川、広島県で「9条の碑」が建ち、静岡県で建設が計画されている。

 茨城県古河市と長野県中野市では寺の住職らが、境内や私有地に「9条の碑」を建てている。ともに、大戦で犠牲になった人への供養や非戦の誓いが込められている。石川県では住民が2カ所に碑を建て、広島県にも碑が立つ。静岡県藤枝市では、彫刻家の杉村孝さん(77)が有志を募り、「9条の碑」の建立を進めており、完成は8月15日を予定している。(5月1日 沖縄タイムスより)

 

 

 

 

2015年5月4日リンクURL