”戦争”は見ようとしなければ気づくことができない。蒼空の月のようにーー。

 山形県に住む友人から本をいただいた。「蒼空の月」と題するその本は、彼女の出身地である宮城県の人々の「戦争体験」の証言集だった。

 ”蒼空の月”とは昼間の青い空に浮かぶ月。目を凝らさなければ、そこにあることに気が付かない。戦争に向かって突っ走るこの国の姿を、国民は見えているのだろうか?という憂いから、街中の情報誌が企画した連載が、敗戦80年の今年一冊の本になったもの。

  敗戦のとき2歳だった友人も、祖父母、両親の戦時の生活体験、理不尽な国策に苦しめられる沖縄の姿を知った少女期以来、沖縄とかかわり続けてきた経験を語っている。      

 新基地建設に反対する辺野古へも、遠く山形から何度も足を運んだ。そのときに聞いた辺野古のオジー・オバーの言葉を記している。「闘った事実だけが子孫に残す最高の財産だ。子孫はそこから先を闘える」

 まもなく30年目となる辺野古の闘いの現場も、高齢化で一人減り二人減りして「いつまで闘えるのだろうか」と不安になることもある。でも「そうだよ!私たちは闘えるところまで頑張ればいいんだ。次に連なる人たちは、そこから先を闘うことができる」と、辺野古へ通う元気をもらった。歌人でもある彼女詠う。

 「高度成長謳える日本人  基地沖縄に負う罪なきや

 山形は雪、友人宅は庭に30㌢も積もっているという。沖縄に住むお孫さんへ送るためた作った雪だるまの写真を、私にも送ってくれました。目はなすび、口は人参、ボタンはジャガイモですって! ばあば、じいじの愛情あふれる雪だるまは、絵になるなぁ。

2025年12月30日リンクURL

 サンタさんも参加 ~ 今年最後の辺野古行動(12月24)

 誰もが年末の多忙期、私もこの日、辺野古以外にも3つの予定が入っていたが、水曜日としては今年最後となるため、辺野古行きを優先した。多分、ほかの皆さんんも同じではないだろうか!

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 木立の向こうにニョキっと顔をのぞかせる砂杭を打つサンドコンパクション工事船。先週、作業再開と報道されてから作動したのは一日だけという。杭を打とうにも、肝心の海砂が不足しているのでは、といわれている。それでも大浦湾に戻ってきた最大の目的は、来月の名護市長選挙に向けて、工事が進んでいることをアピールしたい思惑も?と。

 一回目の座り込みが終わりテントに戻ると、暖かいぜんざいの差し入れが待っていた。

 辺野古の闘いは、こうした人々の支えあいで維持されている。幸い今日は暖かいが、さらに身も心も温かくなって次の座り込みに元気をもらう。

 

 正午に向けての2回目の座り込み。高江ヘリパットいらない住民の会のメンバーが、最近の高江の状況を報告した。

 「ヘリパットが完成しても、住民による監視は続いている。毎日は無理だが…。いま北部訓練場は米軍だけでなく、自衛隊や外国の軍隊もやってきて共同訓練が行われている。イギリス軍、オーストラリア軍などが使用していることが分かっているが、政府は把握していないと言うばかり。最近大規模な宿舎が完成し、さらに新たに建設も始まっている。住民地域の国道を、フル装備した兵士が銃を構えて行進する姿も。そんなことが許されるのか!沖縄の戦場化は、こんな森の片隅でも日々着々と進んでいる」。

 

 

 

 

 

 

 

 

2回目の座り込みを終えて、久しぶりに浜のテントに寄ってみた。

 ここからはサンドコンパクション工事船がさらに大きく見える。辺野古集落の住民は、毎日のようにこの光景を目の当たりにして、どんな気持ちで暮らしているのだろうかと、思いを巡らせる。たまらない気持ちになる。

 


 三回目の座り込み。そういえばクリスマスイブだ。サンタさんも来てくれた。Eさんの指導で「沖縄清しゃ」という民謡を踊った。にわか仕込みながら、結構イケてたんじゃない?


 

 

 

 

 

 

 

 ゲート前のテント横で千年木の花を見つけた。別名「幸福の木」とも呼ばれる。広く根を張るので、赤土流出を防ぐ植栽としても認められているそうな。

 「千年木」「幸福の木」という名前が、お正月の生け花としても人気がありそうだ

水曜日はこれで最後だが、年内の辺野古行動は26日(金)まで行われる予定。年明けは5日(月)から始まる。

 

 

 

2025年12月25日リンクURL

南部戦跡同行記 ② ~ 沖縄はまだいたるところに戦争の「跡」が…

 平和の礎に記された沖縄戦の犠牲者は、今年の慰霊の日までに敵味方含めて24万2千人余。そのうち日本兵6万6千人、米軍兵士1万2千人、沖縄出身兵士・軍属2万8千人、そして一般住民は9万4千人と言われている。軍人より住民の犠牲者が圧倒的に多かった。それだけでも国際法違反の戦場である。

 四国在の友人に誘われて南部戦跡めぐりに同行、午後はガマフヤー・具志堅隆松さんに遺骨収集の現場を案内していただいた。 

 具志堅さんは、現場までの道中、何度か先導していたバイクを停め、沖縄戦と遺骨集の状況を説明した。2度目に車を停めた場所で説明の途中、急に話をやめたかと思うと、道向かいの畑に入り、あぜ道の草をかき分けた。

砲弾の破片だった。

 あたりは一面のどかに収穫前のサトウキビの葉が風に揺れ、玉ねぎなどの野菜畑が青々と広がっている。そんなところに砲弾の破片が転がっているのだ!この辺りでは畑を耕しているときにこうした砲弾のかけらが出てくると、他の石ころと同じようにあぜ道に放り投げるのだという。時にはそれが人骨のだったりもする。具志堅さんは「沖縄はまだ、いたるところに沖縄戦の”跡”がある」とつぶやいた。でもそれはまだ序の口だった。

 一行(8人)は具志堅さんを先頭に林の中に分け入った。

 3,4分もせずに立ち止まった具志堅さんは、またしても砲弾のかけらを、こともなげに拾い上げた。

 長年の経験で具志堅さんは目ざといが、しばらくたつと                        ツアーのメンバーも、砲弾のかけらを見つけることができるようになった。「いたるところ」の意味は、それでもまだ序二段くらいだった、と後で気がつく。

 同じ場所で、やはり具志堅さんが枯れ枝や落ち葉をかき分けて10秒せずして手にしたもの…。

次々と拾い上げた遺骨のかけら。それは一つや二つではない。経験のない私には小石と見分けがつかなかった。

 ここがいま具志堅さんが遺骨収集を行っている現場。ガマなどに入れなかった避難民が、艦砲や機銃掃射を避けて一時的に身を潜めたであろう岩陰である。ここからは遺品や遺骨がいくつも発掘されたという。

 ここからさらに10メートルほど坂を登ったところに案内された。

 ブルーシートで覆われた一角に線香をあげて手を合わせる具志堅さん。

 一体の人骨のほぼ全身がきれいな形で見つかったという。「亡くなったまま野ざらしではなく、丁寧に埋葬されたのであろう。その人(埋葬した人)にとって、きっと大切な人だったのではないか。年齢は20代半ばと推定される」と具志堅さん。衝撃的な光景に、誰もが言葉を失った。

 遺骨が見つかった場所からさらに2メートルほど緩やかな坂を登ったところに、小さな赤い旗が無数に立てられている。なんとこれがすべて遺骨や遺品の存在を示しているという。

 具志堅さんが枯枝で示しているのは2本の大腿骨。その他は小さな石ころにしか見えないが遺骨のかけらや遺品(時計やボタンなど)。砲弾の破片とともに、これが具志堅さんのいう「いたるところに戦争の”跡”がある」という言葉の意味であった。

 これが戦後80年もたった激戦地沖縄の現実である。あまりにも衝撃的な現場に言葉を失い、眩暈がした。

 戦没者の遺骨収集という戦後処理もまだほとんどなされていないというのに、新たな戦前がひしひしと迫っている。

 具志堅さんはこの場所を、そのまま保存して、平和学習の場にできないだろうかと県などに働きかけているという。

 

 これまで具志堅さんの話は何度も聞く機会があり、書籍も読んで知識としては知っているつもりだった。しかし、聞く見るとでは大違い、現場に立つということの大切さを、改めて思い知らされた一日だった。

 誘ってくれた友人と、案内してくださった具志堅さんに感謝するとともに、平和への思いを込めて祈りを捧げ、現場を後にした。

 

 

2025年12月24日リンクURL