平和の礎に記された沖縄戦の犠牲者は、今年の慰霊の日までに敵味方含めて24万2千人余。そのうち日本兵6万6千人、米軍兵士1万2千人、沖縄出身兵士・軍属2万8千人、そして一般住民は9万4千人と言われている。軍人より住民の犠牲者が圧倒的に多かった。それだけでも国際法違反の戦場である。
四国在の友人に誘われて南部戦跡めぐりに同行、午後はガマフヤー・具志堅隆松さんに遺骨収集の現場を案内していただいた。
具志堅さんは、現場までの道中、何度か先導していたバイクを停め、沖縄戦と遺骨集の状況を説明した。2度目に車を停めた場所で説明の途中、急に話をやめたかと思うと、道向かいの畑に入り、あぜ道の草をかき分けた。
砲弾の破片だった。
あたりは一面のどかに収穫前のサトウキビの葉が風に揺れ、玉ねぎなどの野菜畑が青々と広がっている。そんなところに砲弾の破片が転がっているのだ!この辺りでは畑を耕しているときにこうした砲弾のかけらが出てくると、他の石ころと同じようにあぜ道に放り投げるのだという。時にはそれが人骨のだったりもする。具志堅さんは「沖縄はまだ、いたるところに沖縄戦の”跡”がある」とつぶやいた。でもそれはまだ序の口だった。
一行(8人)は具志堅さんを先頭に林の中に分け入った。
3,4分もせずに立ち止まった具志堅さんは、またしても砲弾のかけらを、こともなげに拾い上げた。
長年の経験で具志堅さんは目ざといが、しばらくたつと
ツアーのメンバーも、砲弾のかけらを見つけることができるようになった。「いたるところ」の意味は、それでもまだ序二段くらいだった、と後で気がつく。
同じ場所で、やはり具志堅さんが枯れ枝や落ち葉をかき分けて10秒せずして手にしたもの…。
次々と拾い上げた遺骨のかけら。それは一つや二つではない。経験のない私には小石と見分けがつかなかった。


ここがいま具志堅さんが遺骨収集を行っている現場。ガマなどに入れなかった避難民が、艦砲や機銃掃射を避けて一時的に身を潜めたであろう岩陰である。ここからは遺品や遺骨がいくつも発掘されたという。
ここからさらに10メートルほど坂を登ったところに案内された。

ブルーシートで覆われた一角に線香をあげて手を合わせる具志堅さん。

一体の人骨のほぼ全身がきれいな形で見つかったという。「亡くなったまま野ざらしではなく、丁寧に埋葬されたのであろう。その人(埋葬した人)にとって、きっと大切な人だったのではないか。年齢は20代半ばと推定される」と具志堅さん。衝撃的な光景に、誰もが言葉を失った。

遺骨が見つかった場所からさらに2メートルほど緩やかな坂を登ったところに、小さな赤い旗が無数に立てられている。なんとこれがすべて遺骨や遺品の存在を示しているという。
具志堅さんが枯枝で示しているのは2本の大腿骨。その他は小さな石ころにしか見えないが遺骨のかけらや遺品(時計やボタンなど)。砲弾の破片とともに、これが具志堅さんのいう「いたるところに戦争の”跡”がある」という言葉の意味であった。
これが戦後80年もたった激戦地沖縄の現実である。あまりにも衝撃的な現場に言葉を失い、眩暈がした。
戦没者の遺骨収集という戦後処理もまだほとんどなされていないというのに、新たな戦前がひしひしと迫っている。
具志堅さんはこの場所を、そのまま保存して、平和学習の場にできないだろうかと県などに働きかけているという。
これまで具志堅さんの話は何度も聞く機会があり、書籍も読んで知識としては知っているつもりだった。しかし、聞く見るとでは大違い、現場に立つということの大切さを、改めて思い知らされた一日だった。
誘ってくれた友人と、案内してくださった具志堅さんに感謝するとともに、平和への思いを込めて祈りを捧げ、現場を後にした。