76年目の慰霊の日 ③ ~ 具志堅さんハンスト5日目(最終日)

 ガマフヤー・具志堅隆松さんのハンガーストライキは、県庁前から場所を移して、21日から平和記念公園で行われた。

  県主催の「追悼式」会場のすぐ隣で、支援者とともに5日目最終日を迎えた。平和の礎を訪れた多くの人たちが激励の声掛けや署名、カンパをする姿が見られた。

 平和記念公園に戻ると丁度「追悼式」が始まったところだった。魂魄の塔を出るころから雨が激しくなり、追悼式の様子はラジオの実況中継をカーラジオで聞いた。

 玉城デニー知事の「平和宣言」、毎年話題になる児童生徒による「平和の詩」、澄んだ清々しい声が心に沁みた。(詩は別項で紹介する)

 追悼式終了後、デニー知事が具志堅さんの激励にテントを訪ねるとの情報に、大勢の人が大雨の中びしょ濡れになりながら待っていた。

 予定より30分遅れてやってきたデニー知事に「設計変更は承認しないでください」と訴え、「遺族の声を聞いてください」と、遺骨がまだ帰ってこない遺族の女性を紹介した。

 沖縄戦で祖父を亡くした比嘉ハツ子さんは「戦没者の遺骨が混じる土で新しい基地をつくることは、遺族として絶対に許せない。知事の力で、辺野古の埋立てを止めてください」と訴えた。「できることを一生懸命やりたい」と答えた知事に、集まった人々の間から拍手が起こった。

 

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76年目の慰霊の日 ② ~ 魂魄の塔

 まだ10時過ぎだったが、慰霊碑の前にはすでにたくさんの花やお供え物でいっぱいだった。

 戦後3か月から半年たって捕虜収容所から解放された人々がふるさとの地に戻ると、累々たる白骨が野ざらしになっていた。地域の人々が力を合わせて拾い集めた遺骨を、一か所に集めて祀った場所が「魂魄の塔」である。 遺骨は誰ともわからず、後に国立墓苑が建立されまとめて納骨された。

 国内唯一の地上戦となり、3か月間にわたり鉄の暴風が吹き荒れた沖縄戦は、自分の家族がいつ、どこで、どのように最後を迎えたのかもわからず、お墓に遺骨はない。そういう遺族は慰霊の日には「魂魄の塔」にお参りする。

 ここ魂魄の塔から200㍍ほどのところに、いま問題になっている辺野古埋め立て土砂の採掘を始めた熊野鉱山がある。「遺骨混じりの土砂を辺野古の埋立てに使うな!」と、沖縄の人たちが反発する背景がここにある。

 

 折り鶴で描かれた「平和」の文字に添えられたメッセセージは、「私たちと軍事・軍隊の共存はできない」沖縄の思いを、私たちも応援します。

 

 例年、ここ魂魄の塔の横の広場で、市民グループ主催の「国際反戦集会」が行われるが、昨年に続き今年もコロナ禍で中止となり、ネット配信となった。

 

 

 

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76年目の慰霊の日 ① ~ 平和の 礎

 

 今日沖縄は76年目の慰霊の日を迎えた。コロナ禍で多くの慰霊行事が中止、もしくは規模縮小を余儀なくされた。それでも人々の足は思いを抱えて摩文仁へと向かう。

 敵味方を問わず、実に24万余の沖縄戦全戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」。今も新たな刻銘の努力が続けられている。今日もたくさんの家族連れが訪れていた。

 今日は慰霊の日には珍しく雨。時折り激しく降る雨の中も厭わず、礎に花や供物をささげ、手を合わせる人々。

 刻まれた肉親の名前を愛おしそうに何度も何度も指でなぞる姿に胸が詰まる。夫だろうか?お子さんだろうか?親かもしれない。

 私も祖父の名前に花を供え、手を合わせた。同じ画面に親戚の名前を見つけた。供えた花が名前にかかり、まるで「見つけて!」と指さしているかのように…。来年は忘れずに名前を呼び、祈りをささげよう。

 礎の隣にある広場では、県主催の「追悼式」の準備が進められていた。昨年に続いて2度の規模縮小は招待者30名限定の開催となった。

 総理など政府関係者や米軍関係者の出席がないため、仰々しい防護壁や警備もなく、本来の厳粛な祈りの場にふさわしい「追悼式」になりそうだ。

 会場との仕切りは一本のロープが張られているだけで、招待者だけでなく、誰もが周囲から見守ることができる。スピーカーを通して声も聞こえる。実質的な参加と同じではないか!思わずマスクの下のほほが緩んだ。

 まだ時刻は10時過ぎ。正午前からの開式までには時間があるので、いったん平和記念公園を離れ、「魂魄の塔」に向かった。

 

 

 

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