70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ④

「白玉之塔」は、当初、戦後6 年目の昭和26 年3 月28 日、集団自決のあった場所に建てられたが、その場所が米軍ミサイル基地用地として接収され立ち入りが出来なくなったため、現在の場所(儀津岬)に移転・建立された。

白玉之塔が元あった場所には、いま「集団自決跡地」の碑が建つ。

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碑の後方にある白い案内板に、米軍の従軍記者が目にした「集団自決」の現場の様子が生々しく記されている。

 
1945年4月2日
ロサンゼルス・タイムス朝刊から
侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見 「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達 琉球列島、3月29日(遅)(AP)

米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注、渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨戒隊に同行した、ニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままでに目にしたものの中で最も悲惨」と現場の様子を表現した。

「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫びや鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。
散乱する死体「明るくなってから、悲鳴の正体を調べに行くために二人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は6ヶ所8ヶ所で手榴弾が炸裂し炎が上がっているのを見た。

開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注、渡嘉敷島の人々)で埋めつくされていた。足の踏み場も無いほどに密集して人々が倒れていた」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は怪我をしていながら死にきれない幼い子が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。
彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。

日本兵(注、島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注、島人の防衛召集兵)2人いた。」 「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。
後頭部に大きなV字型の深傷を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいけない、いまにもショック死するだろう、と軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけてる人々にモルヒネを注射して痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。

負傷した日本人(注、渡嘉敷島の人々)を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道筋の洞窟に隠れていた一人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注、渡嘉敷島の人々)は米国人は女は暴行、拷問し男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料避難所を与えてくれた事に驚いていた。
自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て悔恨情にさいなまれていた。

2015年4月2日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ③

慰霊祭には島の小中学生も参列した。

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小学生が千羽鶴を捧げ、中学生は平和への願いを込めた詩を朗読した。

「いま生きている私たちで考えよう。
 争いごとなくすために
 悲しんでいる人々を一人でも救うために
 二度とあの日の悲しみを繰り返さないために」

 

DVC00320.JPG宮城千恵さん(宜野湾市在住)は
当時、島の小中学校の校長として赴任していた祖父と、祖母を「集団自決」で失った。
戦後生まれの宮城さんは、もちろん祖父母の温もりを知らない。
『島のお年寄りから「校長先生は優しい人だったよ」と声をかけられ、
祖父が渡嘉敷島の人たちに溶け込み、慕われていたことを知って嬉しかった。
私も、そういう祖父や祖母に会いたかった』と声を詰まらせて語り、
一緒に慰霊祭に参列した親族とともに
自作の歌「命どぅ宝」を合唱、奉納した。DVC00317.JPG

 

「命どぅ宝」
       宮城千恵 作詞  入里叶男 作曲

一、 つきぬける青い空 はじける白い雲
    深い緑に透き通った青い海
  平和な平和なこの島で起こった悲しい出来事
  なぜなぜ亡くなったのおじいちゃんおばあちゃん
    私はその温もりも知らない
    白玉之塔に刻まれた名前を指でなぞるだけ
    美しい島は語る 命どぅ宝(ぬちどぅたから)
    命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝

 

けらまつつじ

けらまつつじ

二、 太陽に輝く空 はしゃぐ子どもたち
    海で働くたくましい漁師たち
    平和な平和なこの島で起こった悲しい出来事
    なぜ傷つけ合ったの愛する者同士が
    私はその温もりもしらない
 指先で触れ合うおじいちゃんおばあちゃん語りかけるだけ 
    美しい島は語る命どぅ宝
    命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝

 

私も父や祖母から、生徒たちをはじめ島の人々に「真喜屋校長先生」と慕われた
宮城さんのおじいちゃんの人間味あふれる数々のエピソードを聞いたことがある。

2015年4月1日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ②

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慰霊祭で主催者として式辞をを述べた松本好勝村長は翌日29日、70歳の誕生日を迎えた。

”集団自決”の現場からかろうじて逃げ出した母親が、砲弾が雨嵐と降り注ぐ山中をさまよう中で産気づき、彼を産み落とした。

「70年の節目に村長を務めていることに因縁を感じる」と、新聞社のインタビューに答えている。

 

 

吉川嘉勝氏は、当時まだ6歳だった。「北山(にしやま)に集まれ!」という日本軍の命令に従い父母兄弟姉妹で雨の激しく降る山道を登った。北山には日本軍の本部壕があり、そこへ行けば友軍が守ってくれると誰もが思っていた。が、待っていたのは阿鼻叫喚の修羅場だった。集めれれた村人たちの間で、誰かが「天皇陛下ばんざい!」と叫んだのを合図に周辺あちこちで手りゅう弾がさく裂した。死に遅れてはならないと家族・親戚が一塊となった輪の中で、兄の一人が日本軍から渡されていた手りゅう弾の信管を抜き石でたたいた。しかし手りゅう弾は何度叩きつけても爆発しなかった。

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

そのとき吉川氏の母親が叫んだ。「死ぬのはいつでもできる。人間は生きられる間は生き抜くものだ。命どぅ宝やさ(命こそ宝だ)」。立ち上がって歩き出した一家を追って何人もの人たちが”玉砕場”を抜け出し、命を救われた。吉川氏の母親は、集落の祭祀を司る人として人々から尊敬されている神人(かみんちゅ)だった。

「訳もわからず、自ら命を絶つことに、神人の母は納得がいかなかったようだ」と、後に吉川氏は証言のなかで語っている。

2015年3月30日リンクURL