「”集団自決 ” 71年目の慰霊祭~渡嘉敷島 ②

続けて書くつもりで①としたが、書くべきことは多く、時間はない状況が続き、ずい分間延びした記事になってしまったがお許しいただきたい。「”集団自決 ”71年目の慰霊祭~渡嘉敷島①」の続きです。

いま、戦没者慰霊碑・白玉之塔は渡嘉敷港を真下見下ろす北山(ニシヤマ)の中腹にあるが、かつては実際に集団自決があった現場のすぐ側にあった。

その場所に米軍基地が建設されたため、現在の場所に移設を余儀なくされた。
その米軍基地もわずか7年で撤退(1960年建設開始し、62年ホーク部隊250名駐屯したが69年に閉鎖)した。その跡地が現在の国立青少年交流の家(1972年に国立青年の家として開所)となっている。

そして、旧白玉之塔の跡地には1992年「集団自決地」碑が建立された。

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敷地内(写真左側)に、島に上陸した米軍の従軍記者が”集団自決”直後の現場を書いたロスアンゼルスタイムスの記事のプレートがあり、当時の様子を生々しく伝えている。

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~1945年4月2日、ロスアンゼルスタイムス朝刊より~

「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫びや鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。
<散乱する死体>
「明るくなってから、悲鳴の正体を調べに行くために二人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は6ヶ所8ヶ所で手榴弾が炸裂し炎が上がっているのを見た。
開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注、渡嘉敷島の人々)で埋めつくされていた。足の踏み場も無いほどに密集して人々が倒れていた」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は怪我をしていながら死にきれない幼い子が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。
彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。
日本兵(注、島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注、島人の防衛召集兵)2人いた。」 「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。
後頭部に大きなV字型の深傷を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいけない、いまにもショック死するだろう、と軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけてる人々にモルヒネを注射して痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人(注、渡嘉敷島の人々)を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道筋の洞窟に隠れていた一人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注、渡嘉敷島の人々)は米国人は女は暴行、拷問し男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料避難所を与えてくれた事に驚いていた。
自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て悔恨情にさいなまれていた。

最後に、
「集団自決」という表現は、「適切ではない」という主張がある。
「日本軍によって死に追い込まれたのであり、自ら死を選んだのではない。ましてや赤ん坊や子どもは自決などできない。戦争美談として、「”集団自決”に軍の関与はなかったとする側に利用されている」として、「強制集団死」という表現が使われている。

「自決」が軍隊用語であることからもその主張は全くその通りであると私も思う。
その主張を理解したうえで、「集団自決」は長年使われてきた表現であり、島の人々がいまも使い続けていることを尊重して、このブログでは「」あるいは””付きで「集団自決」と表現していることをお断りしておきたい。

2016年4月17日リンクURL

「集団自決」 71年目の慰霊祭~渡嘉敷島 ①

今年も3月28日がめぐり来た。

戦没者慰霊碑・白玉の塔

戦没者慰霊碑・白玉の塔

沖縄では33年忌が過ぎると死者の魂は昇華し、神となって天国へ帰るとして、すべての法事が終了する。
しかし、戦争で亡くなった方々の場合は別、その無念の死を語り継ぎ、平和の礎するために、33年忌が過ぎても村主催の慰霊祭が続けられている。

式辞を述べる松本好一村長。

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涙で声が詰まる場面があり、この日の出来事への、特別な思いが察せられる。実は、松本村長は多くの村民が命を落とした「集団自決(強制集団死)」があった翌日29日に生まれた。

慶良間諸島の「集団自決」は、それから3か月間にわたって繰り広げられた沖縄戦の序幕に過ぎなかった。
生まれたばかりの赤子を抱えた母親が、地獄のような沖縄戦を潜り抜け、すべてを失いゼロからの出発を強いられた戦後を、どのように生きぬいてきたのか、そんな母親への思いが胸に去来したかもしれないと想像する。

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戦争を知る世代、体験を共有する遺族はもう数少なく、高齢化がすすむ。「来年は参拝に来れるかねぇ」と、誰にいうともなく寂しそうに語る。

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ひ孫の世代、小中学生によって千羽づるが捧げられた。

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当時、校長として渡嘉敷島に赴任し、夫妻ともに「「集団自決」に巻き込まれた方の遺族が作詞・作曲した歌「命どぅ宝」が披露された。

ケラマツツジ

ケラマツツジ

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島は新緑の季節を迎え、慰霊碑・白玉の塔の周りは、島の花でもある「ケラマつつじ」が、燃えるような赤い花を咲かせている。
シャリンバイも香り高く満開だった。

 

2016年3月29日リンクURL

渡嘉敷島より新年のご挨拶

 いい正月でーびる 

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今年は数年ぶりに ふるさと・渡嘉敷島で新年を迎えました。
曇りがちの元旦でしたが、初日の出を拝むことができました。

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刻々とのぼりゆく初日

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昨年国立公園に指定された慶良間諸島。
ザトウクジラが子育てにやってくるケラマ海峡は世界屈指の透明度を誇るサンゴ礁の海です。
ただいまホエールウオッチングシーズンの真っ最中!

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2016年1月2日リンクURL