違法ダンプ 許しません ~ 6月8日の辺野古

   いつも使っているパソコン(デストップ)が、去る6日の午後から故障、仕事が滞り、ブログの更新もままならない。今年に入って不調が続いていたが、ついに完全にダウンした。かろうじてメールのやり取りや簡単な作業は古いノートパソコンで何とかやっているが、必要な資料が見れないのと、細かい作業をするためのソフトが使えないので、お手上げ状態。昨日の辺野古の様子だけは簡単に報告しておきたい。

 梅雨後半(芒種)の季節に入り、雨続きの沖縄。例年の3倍の雨が降っているとのこと。今日(8日)も午前30%、午後70%の降水確率との予報の中、辺野古へ。

 途中、交通事故の渋滞に巻き込まれ、辺野古へ着いたのは9時03分。ゲート前ではすでに一回目座り込んだ人たちの排除が始まっていた。

 

 

 最近分かったことで、物資を運んでいるダンプの決まり事として、営業中は企業名が明記されていなければ、違法運航になるとのこと。先週から安和桟橋や塩川港に出入りするダンプのチェックで、違法ダンプが多く見つかり摘発されたという。

 その影響かここ辺野古の工事用ゲートでも、今日は手書きや、いかにもとってつけたようなネームプレートのダンプがいくつもあった。

 

 11時は、第四ゲートへ。

 雨の中での埋め立てや森林伐採、道路工事は海の汚染につながる。

 国道沿い、辺野古集落入り口付近の植栽にリュウキュウキョウチクトウが満開。どんよりとした雨模様の空にノボタンが彩を添えていた。

 この日は午後から別日程が入っていたため、私は11時過ぎに辺野古を後にした。

 

 

2022年6月9日リンクURL

今日(3月30日)の辺野古

 いつも使っているパソコンが不具合で、不慣れなノートパソコンのため、書き込みに時間がかかり、今日は簡単な報告とします。ご了解ください。

 霧雨の中を、今日も辺野古へ。先週は友人の告別式がありお休みしたため、2週間ぶりの辺野古である。

  いつもの時間(8:15)に辺野古へ到着すると、基地機能はすでに活動を開始していて、完全武装の兵士を満載した米軍車利用が、激しくゲートを出入りしている。

  

 9:00前の一回目の座り込みは30名余が座り込んだ。春休みになって、県外から学生など若い人たちの参加が目立っている。今日も広島から、高校2年生という若者が一人で参加していた。

  5年前にも両親と一緒に辺野古に来たという若者。少しの時間も惜しんで、多くの人たちから話を聞いていた。

 

 年度末のせいか工事車両の数が激減しており、先週から午後3時の3回目の搬入はなく、抗議行動は午前中で終わっているとのこと。今日もその可能性が高いとのことである。

 2回目の座り込みまでの合間を縫って、第三ゲートの様子を見てきた。

 

 工事車両の出入りはなかったが、ゲート周辺の森林伐採はさらにすすみ、先々週の2倍以上の面積が切り開かれ、赤茶けた山肌をさらしていた。直径2メートル近くはあろうと思われる大木の切り株、なぎ倒され引きちぎられたような姿が痛々しい。

 埋め立てが進む辺野古崎の様子が透けて見える。目隠しをするかのように、手前の木だけが切り残されている。

 一回目、二回目とも工事車両12台が入っただけで、今日も午前中だけで抗議行動は終了した。 

 

 

2022年3月30日リンクURL

Jeju(済州) 4・3の真実と正義を問う ~ 済州島の旅②

4・3のシンボル椿の花。この季節済州島の野山を彩る。

「 4・3の真実と正義問う」と題する国際会議に参加するため10月3日~8日済州島に行ってきました。ちょっと間が開いてしまいましたが、その報告②です。辺野古の状況もお伝えしながら飛び飛びになりますが数回に分けてお伝えします。

<済州島4・3事件を知っていますか?>

<遺族会によって毎年行われてきた4・3犠牲者の慰霊祭、2014年、初めて国の主催で開催されたが、朴 槿恵(パク・クネ)大統領(当時)は出席しなかった。前日になってのドタキャンに遺族会は怒った。2014年撮影

朝鮮半島の南の洋上に浮かぶ済州島は、韓国本土とは異なる歴史と文化を持つ小さな島。日本の中の沖縄のような島である。

1945年8月15日、敗戦によって日本の植民地支配から解放されたと喜んだのもつかの間、第二次世界大戦の終了とともに、朝鮮半島は南北に分断され、北半分をソ連に、南半分をアメリカの支配下に置かれる。

日本の植民地時代、朝鮮半島の中でも抗日運動の最も激しかった済州島は、人々の人権意識が高く、南北分断に対する島を挙げての抵抗運動が起こった。

4・3事件のきっかけは、1947年3月1日、分断を固定化する南単独の国政選挙に反対して集まったデモの警備に当たっていた警察官の馬に蹴飛ばされて、一人の小学生が死亡。これに怒って抗議した民衆に、警察が発砲して多数の負傷者が出た。

この事件が起点となってゼネスト、責任者の逮捕、拷問、赤狩りと事態はエスカレート、翌年1948年4月3日、たまりかけて民衆が武装蜂起する。以後7年7か月にわたって国家権力による熾烈な民衆弾圧の嵐が吹き荒れた。村ごと焼かれたり、小学校の庭に集められて女性、子ども、老人を含む住民が銃殺されるなど、3万人余が犠牲になるという残酷な大量虐殺事件である。

<遺骨発掘の現場写真:4・3資料館ノムヒョン展示より>

南北分断と米軍支配が続く中で、生き残った人々は沈黙を強いられ4・3の真相は闇の中に押し込まれた。2003年10月、やっと韓国政府は国家としての責任を認め、盧 武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が、遺族と済州島民に対し公式に謝罪し、真相究明を約束した

同じ国民同士の間で、なぜこのような悲惨な事件が起こったのか?その根底に、韓国本土とは違う済州島の歴史、文化、気候風土に対する差別意識があった。そして、その背後に大国アメリカの強大な軍事支配があった。日本の中の沖縄に符合する。韓国を日本、済州島を沖縄と言葉を置き換えても違和感がないほど酷似している。

虐殺された母親の母乳に吸いつく赤子:4・3資料館展示より>

今回の国際会議は、今年が4・3事件から70周年に当たり、国家プロジェクトとして真相究明に当たってきた4・3研究所など50余りの関連の団体が主催して開催したもので、4・3と同じような経験を持つカンボジア、インドネシア、ギリシャ、台湾、沖縄からの報告を通して、4・3の真実を明らかにし、後世に伝えようという趣旨で行われた。

 

2018年10月23日リンクURL