ベトナムの旅 ③ アレン・ネルソンさんのこと㊦

<謝罪の言葉をもってベトナムに戻る>
こういう見出しで、2005年6月2日のベトナムの新聞「ティエンフォン」紙に
アレン・ネルソンさんのことが掲載されています。
アレンさんの人柄がよくわかる記事ですので紹介します。

先月末ダナンに寄港した日本のピースボートの一団の中に、目にするものほとんどすべてをカメラで記録している、大柄で物静かな黒人男性がいた。

彼はすべてを、詳細かつ丁寧に記録していた。時々、彼は首を回して、ひそかに涙を拭っているように見えた。その人はアレン・ネルソン氏。
1966年6月にダナンに上陸した、元米海兵隊員である。その時、アレン・ネルソン氏は18歳になったばかりだった

枯葉剤の被害~ベトナム戦争資料館の展示より

枯葉剤の被害~ベトナム戦争資料館の展示より

ダナンの人々と会って、アレン・ネルソン氏は声を詰まらせて話した。
「39年前、私は罪を犯すために、最新の兵器を積んだ戦艦でベトナムに来ました。
いま、私たちはベトナムの方々に謝罪の言葉を伝えるために、ピースボートに乗ってこの国に戻ってきました。
私たちは、米政府がベトナムの方々に謝罪すること、彼らが皆さんの国で引き起こした戦争の被害に賠償することを、要求しています」

この57歳の元兵士は、彼が参加した非道な戦争の重い傷跡を、身体に留めている。
アメリカに戻ったあと、彼は仕事も家もなく、「ベトナム戦争後遺症」と呼ばれる病気に苦しめられた。
18年もの治療を経て、彼はようやく自らが引き起こした罪悪についての妄想を、克服することができた。

日本に渡って、アレン・ネルソン夫妻は積極的に平和活動に加わるようになった。
彼は、ベトナムや世界各地をピースボートで訪ね、平和を訴えていることを語った。
この行程の中で、夫妻はベトナムの枯れ葉剤被害者支援のために、1000ドルを寄付した。

アレン・ネルソン氏の妻、ワカ・クバイシさんは、ベトナム枯れ葉剤被害者協会副会長のグエン・チョン・ニャン教授に、アメリカの戦争がベトナムの被害者に残した惨禍についての写真や資料を紹介され、深く心を打たれていた。
とくに、ダイオキシンに侵された被害者の写真を見て、バグダッド医科大学(イラク)の女性教授は、いっそう心を動かされた。

彼女は、枯れ葉剤についてベトナムで得た情報をイラクに持ち帰り、自身の国でいま起きている類似の問題の解決に役立てるという。

大学で学生たちに戦争の実相を語るアレンさん

大学で学生たちに戦争の実相を語るアレンさん

ワカ・クバイシさんの息子、ファディ・サミさんは言う。
「枯れ葉剤被害者の写真を直視するのは、あまりにも胸が痛んで、とても大変でした。
イラクで戦争の後に皮膚がんや他の病気を患っている多くの人たちの写真と、変わりありません」

この地球上の良心のある人なら誰でも、ベトナムの枯れ葉剤被害者から感じたことについて、決して無関心でいることはできない。
彼らはいま、被害者やその親戚の人たちが背負わされている苦しみが少しでも軽くなるように、可能なことすべてを努力して取り組んでいる。

2014年1月19日リンクURL

ベトナムの旅 ② アレン・ネルソンさんのこと ㊥

ベトナム戦争で、アメリカの国や、米軍、そして自分自身がやったことを謝罪するため、勇気を振り絞ってベトナムにわたったアレンさん。

ベトナム戦争で、アメリカの国や、米軍、そして自分自身がやったことを謝罪するため、勇気を振り絞ってベトナムにわたったアレンさん。

病に倒れたアレンさん。

ご存知のようにアメリカは日本のような国民皆保険の国ではありません。
病気になると、個人的に民間保険に入っていない限り、 全部自己負担で治療を受けなければなりません。
特に癌などの治療はとても高額な費用が掛かります。

アレンさんの病気を知って、ともに平和のための活動をしてきた仲間や、友人知人たちが、 アレンさんの健康回復を願って、治療費の募金活動を行いました。
その結果、沖縄だけでなく日本全国から次々と募金が寄せられました。

しかし、こうした多くの仲間や友人たちの願いもむなしく
アレンさんは2009年3月、神様のもとに召されました。

そして、家族のもとには使いきれなかった治療費が残されました。
全国の平和を願う人々から寄せられた善意のお金です。 枯葉剤被害者の会に送ろうという話もありましたが、アレンさんの家族は、残ったお金をベトナムの子供たちのために使いたいと 願いました。

辺野古の浜で~アレンさん

辺野古の浜で~アレンさん

そこでこの基金を託されたのが
私もメンバーとしてかかわっている「沖縄ベトナム青葉奨学会」です。
もう20年近くベトナムの子供たちに奨学金を送り続けているグループです。

ベトナム側の「青葉奨学会」を通して3年前から「アレンネルソン奨学金」として、 ベトナムの特にベトナム戦争のときネルソンさんが戦い、大きな被害を与えた地域の子供たちへ奨学金が送られるようになりました。

今回のベトナム行きは、今年のアレン・ネルソン奨学金の支給式に立ち会うための旅だったのです。

2014年1月17日リンクURL

ベトナムの旅 ① アレン・ネルソンさんのこと㊤

去る11月、ベトナムへ5泊6日の旅をしました。
遅ればせながらの報告です。

なぜ?何をしにベトナムへ?ということですが
それにはまず、アレン・ネルソンさんについて語らねばなりません。

アレン・ネルソンさんはアメリカの元海兵隊員。
沖縄で新兵としての訓練を受け、ベトナム戦争を戦った人です。

アレン 

戦場の兵士は、敵を殺さなければ自分が殺されます。
アレンさんも、人を殺すあらゆる方法を訓練されてベトナムに赴き.何の迷いも疑いもなく、たくさんのベトナム人を殺しました。
それは軍人として当然のことと、アレンさんは思っていました。

ある日、戦闘の最中に、逃げるベトナム人を追いかけて
暗い防空濠の中に入りました。入った途端「誰かいる!」と感じました。

そこにいたのは若いベトナムの女性が一人。銃を構えて飛び込んで来たアレンさんを見て、女性の顔はまるでモンスターにでもであったように恐怖で引き攣るのがわかりました。でもなぜだか逃げようとはしません。
しかも何やら苦しそうにうめいています。

よく見ると、下半身裸の女性の両脚の間から何かが覗いていました。アレンさんには何が起こっているのかすぐには事態がよく呑み込めませんでしたが、女性がひときわ強くいきんだとたん、思わず差し出したアレンさんの両手に、何やら暖かいものがゆだねられました。
そして次の瞬間「おぎゃ!」と声を上げたのです。
それは、生まれ落ちたたばかりの赤ん坊でした。

その若い女性は、アレンさんの手から赤ん坊を奪うようにして受けとり、自分の歯で臍の緒を噛み切って 、素早く濠の外へ逃げ去って行きました。

我に返ったアレンさん、自分の両手の中で産声を上げた赤ん坊の感触に
「ベトナム人も人間だったのだ!」と、初めて気が付いたそうです。

以来アレンさんは、ベトナムで戦うことができなくなりました。
わが戦友たちを殺した敵、犬・畜生も同じと思い込んでいたトナム人も
自分と同じ人間だった!とわかったからです。

ブックレット 赤ん坊が

退役したアレンさんは、戦場での過酷な体験から心を病み(PTSD)社会人として、日常生活が営めなくなりました。

それでも家族や友人たちに助けられながら、十数年かけて立ち直り、 アメリカ国内だけでなく、日本、特に海兵隊基地のある沖縄に来て戦争の実態、軍隊の本質を語りました。
特に米兵たちには「戦争をやめて、お母さんの許に帰ろう!」と呼びかける平和運動を ずっと続けていました。

また、アメリカ国内では、軍人予備軍である高校生に.「どんなに苦しくても軍人にだけは絶対なるな」と呼び掛ける活動に力を入れていました。

なぜなら、「貧しくて、上の学校へもいけない就職もできない僕たち黒人は 軍隊に入るか、麻薬に手を染めて刑務所に入るしか選択肢はなかった」と
アレンさん自身が語るようなアメリカ社会だったからです。

そんな中、アレンさんは、50代の半ばで癌に侵され倒れてしまいます。
それはベトナム戦争で米軍が使った枯葉剤の影響でした。
米軍がベトナムに振りまいた膨大な枯葉剤は、 後にベトナムの人たちに想像を絶する多くの被害(ベトちゃんドクちゃんに代表される結合奇形児の出生などが今も世代を超えて続いている)を与えましたが

それだけではなく、ベトナムで戦った米軍人たちにも
無残な被害を与えていたのです。(つづく)

2014年1月14日リンクURL