ベトナムの旅 ⑫~ベトナム戦争の記憶・クチ・トンネル

圧倒的な物量に勝る米軍を「象」に例えると、竹ヤリ状態で米軍に立ち向かう北ベトナム軍はさしずめ「アリ」、というのがベトナム戦争の構図である。軍事力の優劣は明らかで、米軍も「この戦争はすぐに決着がつく」と思っていた。

しかし、戦いは泥沼化して長期にわたり、そして、「アリ」は「象」に勝ったのである。
その大きな要因の一つが、地下につくられたれたトンネルの存在だった。

ホーチミン市から北西におよそ70キロ。クチ(古芝)と呼ばれる地区の地下には、総延長250キロメートルにも及ぶ地下トンネルが、網の目のように張り巡らされている。それも3層になっていて、入り口は「ホントに人間が入れるのか」と思うほど狭いが、奥には病院も市場も、芝居も映画もあったという。

ベトナムの兵士は本当にアリになったのである。

クチ・トンネルの模型。まるでアリの巣のよう。

クチ・トンネルの模型。まるでアリの巣のよう。

まず、映像でベトナム戦争の経緯、クチのことなどで説明される。ちゃんと日本語になっていた。

まず、映像でベトナム戦争の経緯、クチトンネルのことなどが説明される。ちゃんと日本語になっていた。

トンネルの入り口。うまくカムフラージュされ、ふたをすれば全くわからな。

トンネルの入り口。同行のメンバーが実際に入ってみた。うまくカムフラージュされ、ふたをすれば全くわからない。

この辺りはベトナム戦争の時代「鉄の三角地帯」と呼ばれた解放戦線の拠点だった。米軍はB52で爆撃し、枯葉剤を撒いて村々を焼き払ったが、解放戦線の兵士は地下に潜って活動した。

兵士は、昼は戦い、夜は食料をつくるために耕した。どこからともなく現れて、どこかへ消えていく彼らを、米軍は「ベトコンはどこにも見えないが、どこにでもいる」と表現している。

アリ塚のように見えるが、実は地下トンネルの空気溝

アリ塚のように見えるが、実は地下トンネルの空気溝 

そのクチの地下トンネルが、ベトナム戦争の遺跡として、国民の平和学習と、外国人向けの観光施設となって一部開放され、見学できるようになっている。

トンネルの中で武器をつくる様子(人形)

トンネルの中で武器をつくる様子(人形)

古タイヤから草履をつくる。足跡からトンネルの入り口が知られないよう、前後が反対につくられた。

古タイヤから草履をつくる。足跡からトンネルの入り口が知られないよう、前後が反対につくられたという。

ガイドは国家公務員

ガイドは国家公務員

ベトコン(米軍が使ったベトナム兵士の蔑称)を見つけて追っかけて行くと落とし穴に転落し、穴の底には写真のような仕掛けがあり、落ちた米兵は串刺しになったまま数日間苦しみつづけ、やがて死んでいくという手作りの武器である。

落とし穴底に仕掛けられた針山。

落とし穴底に仕掛けられた針山。

ベトナム戦争で、米軍はあらん限りの残虐行為をベトナムの人たちに行っている。それに対抗するためには、こんな仕掛けも必要だったのだろう。が、鉄の針山に突き刺されたまま何日も苦しみもだえ、やがて死んでいく人間を想像して、私は、冷たい汗をかいて身震いした。他にも拷問のための道具がいくつも展示されていた。

米軍戦車の残骸

米軍戦車の残骸

戦場では、殺さなければ殺される。相手が残虐であればあるほど、抗する側もさらに残虐にならざるを得ない。戦争は、一旦始まってしまえば、始めたに方にも仕掛けられた側にも、どっちにも正義はない、と私は改めて思った。

2015年6月18日リンクURL

未完成のベトナム報告~ベトナムの旅 ⑪

沖縄のことを、県外の多くの人たちに知ってほしくてブログを始めて5年。
いったいどれだけの方が見てくださっているのかは、皆目見当もつきませんでしたが
それを知る方法があるとわかって、去る4月からカウンターをつけてもらいました。
思った以上に多くの方々が来て下さっていることに驚き、感謝に耐えません。

でも意外だったのは、人気記事の上位に「ベトナムの旅」が上がっていることでした。

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実は、ベトナムの旅シリーズはまだ完結していないのです。
旅の主目的であった「奨学金の贈呈式」についてはお伝えしましたが、
もう一つ重要な「ベトナム戦争の記憶」がアップできないまま、一年以上中断してしまいました。(一年前のこの時期、私の中でベトナム戦争の重さを書き綴る精神的なパワーが持てなかったためです。言い訳になりますが…)

ベトナムでも女性たちは働き者(早朝の市場で)

ベトナムでも女性たちは働き者(早朝の市場で)

いまさらという感じもしますが、ベトナム戦争を語らずにはベトナムの旅の報告とは言えないので、次回からあと2~3回ごく簡単にふれてシリーズを締めくくりたいと思います。

 

2015年6月17日リンクURL

シリーズ9条の碑④~那覇市の9条の碑

安倍「戦争」法案憲法違反の声が拡がっている。

憲法9条をちゃんと読めば誰でもわかることを、安倍政権は、ことばを操ることで国民を騙し、国会議員の数に頼って正論をねじ伏せ、戦争が出来る国への道をひた走ってきた。ここにきてさすがに「これは危ない」と、日本国民も気が付いたようだ。

戦争が終わってもさらに70年間、日々外国の戦争と隣り合わせに暮らしてきた沖縄県民は、平和憲法が戦争に巻き込まれないための最後の拠り所と、身をもって知っている。だから沖縄県内にはいくつもの「9条の碑」が存在する。9条の碑シリーズ④は 那覇市の9条の碑を紹介しよう。

那覇市の9条の碑は、与儀公園にある。碑名は「恒久平和の碑」である。

那覇9条の碑 ②

那覇市の9条の碑は、戦後40年の節目の年となった1985年の憲法記念日・5月3日、与儀公園の一角に建てられた。日本で初めて行政が建てた9条の碑である。

台座に刻まれた由来の碑文には、「本市は憲法の目指す恒久平和主義が名実共に定着し二度と戦争の惨禍が起こることのないよう祈念し『平和都市なは』建設のシンボルとしてこの碑を建立する」と、当時の親泊康晴市長の名で記してある。

那覇9条の碑

「那覇市の9条の碑」がある与儀公園は、復帰闘争時世代にとっては思い出の場所である。

第二次世界大戦の敗戦国日本は、サンフランシスコ対日講和条約により沖縄を切り捨てることで独立国の体裁を取り戻した。条約が発効した1953年4月28日は、沖縄が米軍の占領統治からアメリカの信託統治=米軍直接統治に変わった日である。この日与儀公園で開催された「4・28」抗議集会には万余の市民が結集した。
集会後は与儀公園→堺町→安里→国際通り→民政府(現在の県庁)前までのデモ行進で祖国復帰を訴えた。

1972年に実現した県民悲願の祖国復帰は、沖縄県民が望んだ「即時無条件・全面返還」が、「核抜き・本土並み返還」にすり変えられ、平和憲法の下へ復帰すれば基地はなくなると期待した県民の想いは裏切られた。
復帰の日に、沖縄県祖国復帰協議会が主催する抗議集会「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、5・15県民総決起大会」が開かれたのもこの与儀公園であった。

与儀公園は、復帰後も米軍の事件事故に抗議する県民大会や日本政府に対する種々の要求等県民大会開催の場所であったが、現在は広場がフェンスで狭められ大きな集会ができないようになっている。(沖縄9条連ニュースより転載)

 

 

2015年6月16日リンクURL